未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。
【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。
(補足)【『アジア州にある七つの教会』が示唆するもの】
【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。
【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。
【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】
『ヨハネの黙示録』第十二章~第十三章、悪魔サタンが天から堕とされた経緯と、地上でキリスト教会に侵蝕してゆく過程について。
【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】
『ヨハネの黙示録』第十四章~第十五章、地上が悪魔サタンの支配下に置かれた頃、天で進行していた『神の裁き』の時に向けての準備の様子。
【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その6)】
『ヨハネの黙示録』第十六章、『神の裁き』として、七人の天使が地上にもたらす災いの様子と、『神の裁き』の目的について。
【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その7)】
『ヨハネの黙示録』第十七章~第十八章、多くの水の上に座っている大淫婦に対する『神の裁き』の様子。
【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その8)】
『ヨハネの黙示録』第十九章、大淫婦に対する『神の裁き』に伴うキリスト教会の再生と、獣達の辿る顛末について。
【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その9)】
『ヨハネの黙示録』第二十章、悪魔サタンの封印と、イエスと聖なる者による千年の統治、サタンの復活と最後の審判について。
(補足)【『ヨハネの黙示録』を構成する三段階】
【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その10)】
『ヨハネの黙示録』第二十一章~第二十二章、新しい世界と聖なる都エルサレムの様子と、イエスからの忠告について。
■ 『ヨハネの黙示録』が書かれた目的について
上記黙示録の解読記事をご覧の皆様は、既に見当がついているのではないかと思いますが、改めて『ヨハネの黙示録』が書かれた目的について、冒頭で述べておきたいと思います。
まず、『ヨハネの黙示録』とは、一つ繋がりの物語が綴られているわけではありません。
大まかに述べると、一言で「神による人間育成計画」と表現できる神の計画の全体像を示すと共に、その中で特に『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が開いた時機に発動する『神の裁き』の進捗に焦点を当てて、その時代に生きる人々に向けて、極力的確な情報を伝える所にあります。
黙示録では、神の働きかけに対する、悪魔サタンの妨害行為についての記述に多くを割いていますが、これも「悪魔の行為自体が、結果的に人間の成長を促進する」との神の判断に基づいており、悪魔に対する裁きの時が繰り延べにされています。
では、「悪魔の行為が、人間の成長を促進する」とは、どういう事なのでしょうか。
神の考え方と悪魔の考え方の違いを一言で表現すると、核技術で原子力発電をするのか、それとも核爆弾を作るのかの違いです。
そして人間は、その行為が正しいのか、それとも間違えているのかを知る為には、実際に正解と間違いの両方の作業を経験しないと、それが正しい(或いは間違い)と納得できないのです。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その9)】では、イエスと聖なる者達による千年の統治の後、サタンが再び拘束を解かれて地上に現れるとありますが、イエスや聖なる者達を通じた神の働きかけだけでは、やはり「何故それが正しいのか?」の理解が曖昧になりがちです。
イエス達の統治の元にある諸国の民は、「イエスや聖なる者達が「そうしなさい」と言うから、彼らの言う通りにするのが正しいのだ」という、誤った理解に繋がりやすいからです。
ですから、再びサタンの封印を解いて、「諸国の民は、本当に神の働きかけの意味を理解しているのか?」を試しているのです。
小羊が巻物の封印を開く度に発動する『神の裁き』も、目的は同じです。
『神の裁き』の時代に、諸国の民である私たちが、日々の暮らしの中で行う一つ一つの判断を、イエスが慎重に見極めています。
そこで「この人は、人間として学ばなくてはならない経験を充分に積んだ」と見なされた人は、人間としての生涯が終わった後に、イエスと共に神の働きかけに携わる部隊の末席に加わります。
一方、「この人はまだまだ未熟で、悪魔の唆しに簡単に乗せられてしまう」と見なされた人は、再び人間として地上に産まれることになります。
特に、イエスが巻物の第七の封印を開く為には、イエスと共に統治に携わる聖なる者が大量にいなくては、千年に及ぶと言われるイエスの統治も覚束ないでしょう。
今も、そして第七の封印を開くまでの間に渡って、人間としての経験を重ねている人々は皆、イエスの千年に及ぶ統治の際には、聖なる者へと成長を遂げて、統治の作業に加わって欲しい――その様な思惑があるからこそ、予めこの様な文書を残して置いたのではないでしょうか。
■ イエスに与えられた権限
前の項目では、イエスが神から渡された巻物の第七の封印を開いた後に、千年に及ぶ統治を共に行う聖なる者達を育成する為に、予め『ヨハネの黙示録』が残されたのではないかと述べました。
霊界の住人の方の話によると、イエスが管轄しているのは第二の封印=『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』だけなのだそうです。
そうすると、かつてはパレスチナに生きたとされるナザレのイエスが、ローマのバチカンを中心とする宗教の信仰対象になっている不思議な経緯の由縁が、ほんの少しだけ見えてくるような気がします。
そこで思い出して頂きたいのですが、黙示録の第二章~第三章にかけて、アジア州にある七つの教会の天使に向けて書かれた手紙が、世界に六カ所ある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人達と私たちに向けた手紙であると紹介しました。(記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】参照)
その中でイエスは、七つの教会の天使に対して「わたしは~をする」と述べていて、イエスが直接何らかの働きかけを行う意思を表明していますが、聖書で語られるイエス・キリスト、生前ナザレのイエスと呼ばれた方は、エフェソの教会である『バチカンの拠点』が管轄する欧州地域の人々に対してのみ、働きかけを行う権限を持っていることになります。
それでは、エフェソの教会を除く六つの教会の天使に宛てた手紙は、無効になってしまうのでしょうか。
ここで、イエスが神から委ねられた役割について思い出して頂きたいのですが、黙示録の第五章では、神の手にあった巻物が七つの封印で封じられていて、この巻物を開いて見るのに相応しい者がいませんでした。
しかし、長老の一人が「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことが出来る」と述べます。
イエスの役割を一言にまとめると、神の「人類育成計画」が記された巻物の封印を開いて、神が予め計画した通りの結果をもたらすことです。
『ヨハネの黙示録』では、神の巻物の七つの封印を全て開くのがイエスの役割と書かれていますが、霊界の住人によると、イエスの役割は第二の封印である『バチカンの拠点』を開くことです。
それ以外の拠点には、やはりイエスと同様の役目を担った別の方がいるそうです。
それぞれの拠点について、イエスが行うのと同等の働きかけが行われますが、働きかけを行っているのはイエスではないとのことでした。
また、黙示録の第五章の冒頭に、神の手にあった巻物にある七つの封印を開いて、見る事の出来る者が誰もいなかったとありますが、その理由については述べておりませんでした。
先に『ヨハネの黙示録』を一通り解読してから、黙示録では語られていない、その辺りの入り組んだ事情を解説した方が、ご覧の皆様にも理解を深めて頂けるのではないかと考えたからです。
管理人自身もきちんと確認したわけではありませんが、黙示録を含む聖書では語られていないと思いますし、その他の歴史的な資料等の記録も残されていないだろうと推測しています。
あくまでも、霊界の住人が語った話ですので、「もしかしたら、そんな事があったのかも知れない」程度の軽い気持ちでご覧下さい。
■ イエスの誕生に至る物語
これはイエスが生まれる遙か昔の話ですが、いわゆるギリシャ神話の神々が人々の信仰を集めていた時代に、神々と人間はもっと身近な関係にあったのだそうです。
日本では、現在でも全国各地に多くの神社があって、神々と人々が共に暮らしていると言っても差し支えない環境にありますが、かつてはギリシャ神話の神々も、日本の神々と同じ距離感で人々に接していたようです。
と言うことで、『日本の拠点』を通じて人間に働きかけるのが、日本の神々である様に、『バチカンの拠点』を通じて人間に働きかけるのは、ギリシャ神話に記された神々なのだそうです。
しかし、今『バチカンの拠点』の守人を務めているのはキリスト教会で、覡はローマ教皇です。
これは一体どういう事なのでしょうか。
そこで黙示録の第十二章を見ると、子供を身ごもった女が現れて、次に赤い竜が現れます。
最初に竜が狙っていたのは、女が身ごもった子供でした。
しかし、子供が神の玉座へ引き上げられると、赤い竜は一転して女を付け狙います。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】では、この女を「人間などの生物に宿って霊が成長するシステム」を指すと述べましたが、これを神格化すると「大地母神」と言えるでしょうか。
また、赤い竜とは、元々はギリシャ神話の神々の眷属であり、天使だったと解説したのは、聖書的な価値観では天使に該当すると言う意味です。
さて、赤い竜は神になることを強く求めたのですが、既に解説したように、かつては自分より未熟な人間であったにもかかわらず、自分より先に神になってしまった者が現れました。
嫉妬に狂った挙げ句に、自ら地上付近へ逃げてくるのですが、そこで赤い竜は、ギリシャ神話の神々を信仰する人々に対して、この様に囁いて唆します。
「お前達は神様の凄い力を畏れて崇拝しているけれども、本当はお前達だって同じ力を使えるんだ。
でも、お前達がその力を使えるようになると、神様はお前達を支配できなくなる。
だから神様は、お前達に神の凄い力の秘密を隠して独占いるんだ。」
この様な世迷い言を囁いたのですが、人々は赤い竜にまんまと唆されて、神々への信仰は急速に衰えていきます。
その挙げ句に、かつては人々と共に過ごしていた神々は、一旦地上から手を引いて、天界へ引き上げることにしたのです。
その様子を見て調子に乗った赤い竜は、「やはり未熟な人間が自分より優れているはずがない」と自信を深めました。
そして、「こうなったらもう二度と、人間を神になどさせはしない。むしろ、俺が地上の神になる!」と執念を燃やすのでした。
その様な事情でしたので、ギリシャ神話の神々とローマ神話の神々が結びつけられて行くのは、いわば自然の成りゆきなのですが、その神々に対する信仰が衰えて行くと、今度は『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が必要とされる時まで、聖なる土地・特別な意味合いを持った土地として維持する為の、新たな仕組みを構築する必要が出て来ました。
そこでギリシャ神話の神々は、『バチカンの拠点』に近い『エルサレムの拠点』が管轄する地域にいた、イスラエルの民の民族宗教に注目しました。
彼らは、自分達の先祖が交わした神との契約に基づいて、自分達の民族神を信仰していました。
聖書にも『創世記』を始めとして、随所に記述がある様に、元々は他の神々の存在や、他の民族が他の神を信仰することを、必ずしも否定しているわけではありません。
しかし、過去に先祖と契約を交わしているイスラエルの民に対しては、イスラエルびとの神である主への信仰を守るように、度々繰り返して強調しています。
ところが、イエスが誕生する時代になると、イスラエルびとの神であった主が、いつの間にか唯一の神であると受け止められるようになっていました。
どうやら、イスラエルびとの国家であったユダ王国がバビロニアに滅ぼされて、当時ユダ王国の指導者であった者達がバビロンに強制移住を強いられた、いわゆるバビロン捕囚の時代に、そういった神への信仰の見直しがあった様です。
実は、『ヨハネの黙示録』の解読に際して、大バビロンという名の大淫婦についての理解を深める参考として、旧約聖書でバビロン捕囚に言及している部分に目を通したのですが、どうやらバビロニアに滅ぼされる前のユダ王国の時代には、神との契約を損ねる不品行が横行していたようです。
ましてや、ユダ王国からバビロンへ強制移住させられた者達は、そこで世代を重ねるに連れて、自らの神に対する信仰を根本的に変質させてしまいました。
言わば、かつて神と契約したイスラエルの民が、悪魔の淫らな唆しに酔い痴れた瞬間です。
この様な経緯があったので、かつてのバビロンに相当する役割を担って、諸国の民を淫らな行いの果実で酔わせてしまったキリスト教会は、『ヨハネの黙示録』で大バビロンと呼ばれました。
さて、バビロン捕囚から時は流れて、イエスが『公生涯』と呼ばれる宣教活動を行っていた頃、ファリサイ派や律法学者達を「偽善者で、不幸である」と述べて、度々厳しく批判したと福音書に記されています。
例えば、「良きサマリア人のたとえ」と言われる『ルカによる福音書』第十章第二十五節~第三十七節にて、律法学者がイエスを試そうとして「永遠の命を受け継ぐ為にはどうすれば良いか」を尋ねます。
イエスは「律法には何と書いてあるか」を問い返すと、律法学者は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分の様に愛しなさい、とあります」と答えました。
イエスは「正しい答えだ、それを実行しなさい。そうすれば命を得られる」と答えています。
そこで律法学者が「では、私の隣人とは誰ですか」と尋ねると、イエスが「良きサマリア人のたとえ」を返すのですが、このエピソードから、当時の律法学者は文章としての律法を知っていても、その意味をきちんと理解して日常生活に活かすのではなく、屁理屈を捏ねて神の言葉に込められた意図を歪めている様子が伺えます。
だからこそ、イエスは「律法に記された正しい行いをしなさい」と諭して、かつてのイスラエルの民の姿勢に立ち戻る様に訴えているのです。
そして、律法を深く理解する者程、ファリサイ派や律法学者よりも、イエスの言葉の方が、聖書に記された神の言葉に照らして正しいと判断することになるのですが、それではファリサイ派や律法学者達の立場が危うくなります。
その様な経緯により、イエスを罪人として処罰することによって、「あれはとんでも無い偽者のペテン師だ」と印象づけると共に、イエスによって揺るがされた自分達への信頼を取り戻す必要があると考えたのでしょう。
イエスは処刑されてしまいますが、死の淵にあっても神の言葉のままを通したので、イエスの死後には、父なる神と共に信仰の対象とされる様になりました。
特に、イエスの復活と昇天についてのエピソードは、人間であったイエスが神の座に引き上げられた事を示す象徴となり、これによりイエスは父なる神に並ぶ信仰の対象となりました。
そこで不思議なのは、生前にイエスが活動していたのはパレスチナの地だったのに、キリスト教がローマ帝国の国教として保護を受ける様になって、拠点をローマに構えました。
そこまでの一連の経緯が、ギリシャ神話の神々による、『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』を、必要となる時まで「聖なる土地」として守り続ける仕組みを作る働きかけだったと言ったら、ご覧の皆様はどの様に考えますか。
これはあくまでも管理人の個人的な解釈であると、予め強調しておきますが、実は『ヨハネの黙示録』の中にも、ギリシャ神話の神々の関与を匂わせる記述があるのではないかと考えております。
黙示録の第四章第四節には、神の玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い服を着て、頭に金に冠を被った二十四人の長老が座っていたとあります。
第五章に入ると、神が右手に巻物を持っているのですが、七つの封印で封じられており、力強い天使にも封印を解いて開くことは出来ませんでした。
しかし、長老の一人がこの様に言います。
「見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を見る事が出来る」
この一連の流れで気になったのは、イエスが登場する前に、既に長老であった二十四人の者とは、一体誰なのかと言うことでした。
更によく見ると、イエスが勝利を得たと告げているのは長老の一人なので、長老の働きかけによってイエスが勝利を得たと想像できます。
仮に、霊界の住人が述べたギリシャ神話の神々についての話が事実であったと仮定すると、『ヨハネの黙示録』は二十四人の長老として描くことによって、ギリシャ神話の神々の関与を前提においた物語と言えるのではないでしょうか。
尤も、霊界の住人の話を裏づける根拠を示せるわけではありませんが、遙かな古の神話とキリスト教の間には深い関わりがあって、もはや神話の中だけの存在と思っていた神々が、今も私たちの成長を促す為に日々働きかけを続けているとしたら、かつて彼らへの信仰を捨てた人々の子孫である欧州に暮らす人々は、一体どの様に思うのでしょうか。
■ キリスト教の神とユダヤ教の神と聖書
ここまでの話を踏まえて、聖書で述べている神について、改めて整理しておきましょう。
私たちは今まで、キリスト教もユダヤ教も同じ聖書(旧約聖書は基本的に共通)を聖典としているのだから、どちらの神も同じ神だと思いがちなのですが、実は、キリスト教の神とユダヤ教の神は別の神です。
と言うよりも、旧約聖書の神と、新約聖書の神は、同じ神でも別の存在を指すと言った方が良いでしょうか。
前の項目でも述べましたが、旧約聖書の神とは、かつてアブラハムと契約を結んだイスラエルの民の民族神であり、恐らく『霊界と地上界を繋ぐエルサレムの拠点』を通じて働きかける神だと考えられます。
しかし、新約聖書の神とは、『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』から働きかける、イエスや二十四人の長老達にとっての神です。
『ヨハネの黙示録』を慎重に読み込んで行くと分かるのですが、天から地上へ向けて働きかけるのはイエスや長老達、天使達であって、神は天の玉座から御言葉を述べるのみです。
旧約聖書の神とは、新約聖書のイエスや長老達と同じ立場の存在で、おそらく彼らを統括するのが新約聖書の神に当たるのでしょう。
因みに、『銀の紐』流の表現では、旧約聖書の神や、新約聖書のイエスや長老達は、それぞれの『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を管理する神であり、新約聖書の神とは、地球全体を統括する神となります。
加えて、旧約聖書はユダヤ教にとっての聖典ですが、キリスト教に取っての聖典は新約聖書のみと言って差し支えないと思います。
旧約はイスラエルの民にとっての神に対する信仰の為の書であって、キリスト教の主体である欧州に暮らす人々の為に書かれた書ではありません。
但し、新約聖書に綴られた文書を理解するには、旧約聖書の存在が欠かせませんので、新約聖書についての理解を深める為の暗号解読キーとして、キリスト教に取っても旧約聖書が重要な書物であると言えます。
また、キリスト教ではナザレのイエスをメシアであると受け止めていますが、ユダヤ教では偽メシアと見られております。
この様な解釈の違いが生じるのは、イエスの役割を考えれば当然です。
イエスは『バチカンの拠点』を通じて欧州諸国の人々に働きかける存在ですから、欧州の拠点を守るキリスト教に取ってのメシアという解釈は妥当です。
一方、ユダヤ教は『エルサレムの拠点』を守る民にとっての教えと言えますので、ナザレのイエスは彼らにとってのメシアではありません。
どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではなくて、どちらも正しいというのが管理人の見解です。
なお、エルサレムを聖地とする宗教にはイスラム教もありますが、現時点では調査の手が及んでいません。
イスラム教も聖書を聖典と見なしている(但し、改竄されて聖典としての価値を失ったとの立場)ので、調べてみる価値はありそうです。
■ 『ヨハネの黙示録』で語られなかったことのまとめ
今回は、『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズでは触れられなかった、「黙示録には書かれていないけれども、黙示録の理解をより深める材料になる」と管理人が考えた点について、あくまでも管理人の個人的な意見として紹介しました。
解読に当たって、霊界の住人の方の話を伺いながら作業を進めていると、時折私たちの理解を越えた知識や、私たちの常識を覆す見解がもたらされることがあります。
その中から、今回は、黙示録の記述としては過去の時代に当たる部分について、黙示録の内容を補足するエピソードを取り上げましたが、いかがでしたか。
この補足記事を書き始めた当初は、一度の投稿で全ての内容を網羅できると予想していたのですが、意外に長引いてしまいましたので、二分割でのお届けになります。
次回は、「黙示録には書かれていないエピソード」のうち、現代から未来に当たる部分についての話を紹介したいと思います。
『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズは、一応次回で一旦終了にしたいと考えておりますので、あと少しだけお付き合い下さい。
Silvercord管理人
なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。
閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/
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