2014年7月25日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)

この記事は、以前投稿した記事【ヨハネの黙示録に託されたメッセージ(その1)】からの連載記事となっておりますので、まだご覧になっていない方は先にそちらをご覧下さい。

前回は、『ヨハネの黙示録』の第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙を見てきましたので、今回は第四章からとなります。





■ イエスが担った役目

黙示録の第四章~第五章にかけては、言わば本題に先駆けた前置きの部分です。
その中で、特に言及しておきたい部分は、以下の点です。
第五章第一節~第四節では、神様が右手に持っている巻物には七つの封印があるのですが、封印を解いて巻物を開ける者がいないとヨハネは嘆いていました。
しかし第五節~第七節にかけて、ユダ族からでた獅子、ダビデのひこばえと呼ばれる小羊が勝利を得たので、小羊は神の手から巻物を受け取ります。
この小羊、屠られたような小羊とは、十字架に掛けられて処刑されてしまったイエスを指します。
ここで強調しておきたいのは、イエスは人間として地上での行いの結果、勝利を得たので、七つの封印を解いて巻物を見ることが出来る様になったという点です。
これは第三章のラオディキアにある教会の天使への手紙にもありましたが、私たちも今後の行い次第で勝利を得ることは十分に可能ですし、勝利を得てイエスのようになり得るのです。
しかし現代のキリスト教会では、その様に受け取られていない印象があります。
聖書を教典とする宗教の徒でありながら、その教典の記述とは食い違った解釈を行う者が聖職者を名乗るのは、余り感心できる姿勢ではありません。
ともあれ、神から託された巻物の封印を解き、巻物を開く役割がイエスに委ねられました。





■ 巻物の第一の封印

イエスが巻物の第一の封印を開きます。
第六章第二節には、白い馬が現れて、それに乗っている者が弓を持っていたとあります。
彼は冠を与えられていたので、既に勝利を得ている者です。
それが更に勝利を得ようと出ていきました。
これは一体どういう事でしょうか。
そこで思い出して頂きたいのは、記事【ヨハネの黙示録に託されたメッセージ(その1)】掲載の項目『神の目的及び霊界と地上界を繋ぐ拠点について』です。
世界の六カ所に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』があり、その拠点を通じて神様が霊的エネルギーを送る作業によって、人間に対して働きかけていると説明しました。
最初は日本の拠点のみが開かれており、2011年になって二番目となるバチカンの拠点が開かれたと述べております。
ですから、第一の封印とは日本の拠点を指します。
しかし、日本の拠点は『ヨハネの黙示録』が書かれる以前から開かれておりましたし、歴代の天皇が日本の拠点の覡を務めて参りました。
ところが、明治天皇より後の歴代天皇は、それ以前の天皇と比べると、覡として分担する役割の幅が拡大しました。
その様な仕組みの変更は、先に霊界側から環境整備の為の働きかけがあり、それを受けて地上界側で新たな仕組みを成りたたせる為の環境が整えられます。
新たな仕組みが整った後は、霊的エネルギーを放出する霊界側と、そのエネルギーを受け取る地上界側の関係者の連携作業として、定常的な働きかけが行われます。
ですから、白い馬に乗っているのは、日本の拠点を通じて霊的エネルギーを送り出している霊界の住人を指します。

もう一つの解釈として、白い馬に乗っている者は勝利の上に更に勝利を得ようと出ていったのですから、例えれば、イエスが聖書を通じて語った言葉の通りに実践して見せるような働きかけとなるでしょう。
その様な観点から見た時に、国内に向けては道徳教育の一環として『教育勅語』が発布されたり、海外に向けては第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本が『人種的差別撤廃提案』を行ったり、その後には欧米列強の支配する植民地を開放するきっかけとなる行動に出ております。
更に、人権意識や人道主義が社会的影響力を強めるのは、第二次世界大戦後ではないでしょうか。
その働きかけが実を結んだかどうかは別にしても、霊界の住人が意図して働きかけていた方向に日本が導かれ、その波紋が一定の時間を置いて世界中に波及しているように感じるのは、きっと私だけではないでしょう。





■ 巻物の第二の封印

イエスが第二の封印を開きます。
第六章第四節には、火のように赤い別の馬が現れたとあります。
その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられます。
そしてその者には大きな剣が与えられます。
さて、第一の封印の項でも述べましたが、第二の封印とはバチカンの拠点であり、そして火のように赤い馬に乗っているのは、バチカンの拠点を通じて働きかける霊界の住人を指します。
しかしそれでは、バチカンの拠点を通じて働きかける霊界の住人は、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせるように働きかけると読めます。
これは一体どういう事でしょうか。
大辞林によると、平和とは以下のような意味を指します。
①戦争もなく世の中が穏やかである・こと(さま)。
②争いや心配事もなく穏やかである・こと(さま)。
つまり、外国との紛争がなく、国内も治安が安定している状態を指すのですが、そもそも地上は常に平和とは程遠い状態に置かれていました。
巻物の第一の封印を開いた後、確かに一部の地域では目立った国際紛争もなく、国内の治安も概ね安定しておりました。
例えば日本は、戦後復興の時期を通じて徐々に治安の安定化と経済成長を促進させ、以後数十年に渡って平和と繁栄を謳歌した国の一つと言えるでしょう。
しかし、その平和と繁栄が世界中に広まった訳ではなく、常に戦火や流血と隣り合わせになった場所もあれば、旱魃や食糧不足による生命の危機に晒されている場所もあります。
巻物の第一の封印を開いた時に、白い馬に乗った者が勝利の上に勝利を重ねようと出ていったものの、その働きかけは思ったように運びませんでした。
平和と繁栄の果実を謳歌している人々が一部に限定されており、またその原動力となった価値観――人権意識や人道主義と言った価値観も、霊界の住人による働きかけを歪んだ形で人間が受け止めてしまいました。
その為に新たな弊害が現れております。
それは、人権意識や人道主義への理解を深めて実践するのではなく、私利私欲を貪る本質を偽る為の体面・体裁として、人権意識や人道主義などのキーワードが乱用され、それらの言葉が示す本質と実態が大きくかけ離れてしまいました。
そこで第二の封印を開き、人権意識や人道主義という仮面の裏に隠れた本質を表に引きずり出して、その様に体裁を取り繕えなくするというのが、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられるという事の意味でしょう。
第一の封印を開いた時に、せっかく参考となる理想像が示されたのに、その意味を歪めて悪用する人々が多くを占めるので、今度は悪用する人々の仮面を剥ぎ取って、お互いに醜い本質を直視する中から、反面教師としての学びを得て欲しいという観点からの働きかけです。
ですから、第二の封印が開いた時――バチカンの拠点が開かれた時期から、徐々に国内も、海外も治安が悪化してゆくことになるでしょう。
既にその兆候は現れておりますが、現代を生きる私たちに求められるのは、そんな不安定な状況を導いたのは私たちの不徳の致す所であることを直視し、その上で現状の問題を解決する為にどうするのかを考えて、実行することです。





■ 巻物の第三の封印

イエスが第三の封印を開きます。
第六章第七節には、黒い馬が現れたとあります。
その馬に乗っている者は、手に秤を持っているのだそうです。
更に第八節では、小麦や大麦、オリーブ油とぶどう酒について言及されております。
さて、第三の封印とは米国の拠点であり、黒い馬に乗っている者は米国の拠点を通じて働きかける霊界の住人です。
そして黒い馬に乗っている、米国の拠点から働きかける霊界の住人が、手に秤を持って食糧の重さを量っているようです。
これは一体どういう事でしょうか。
既に前の項で説明しましたが、第一の封印を開いたのは過去の出来事であり、第二の封印を開いたのは数年前であり、現在進行中の出来事です。
それに対して、第三の封印以降を開くのはこれから未来の出来事となりますので、現時点では不確定の要素が増してゆきますが、出来る限り想像力を逞しくして読み解いてみましょう。
まず、第二の封印を開いてから、徐々に国家間の対立や国内での対立が激しくなり、国際紛争や内戦が各地で勃発します。
行き過ぎたグローバリズムの揺り戻しとは、価値観の異なる者同士の対立と紛争から始まり、そして新たな境界線を引き直した上でお互いに一定の距離を置くことによって、一応の収束を迎えることとなるでしょう。
しかし、事態はそれだけでは片付きません。
紛争の結果として多くの血が流れ、また国土が荒れて食糧生産が滞る為、各地で食糧不足となるでしょう。
ですから、黒い馬に乗った者が手に秤を持ち、食糧の重さを厳密に量っているのです。
ここで人間は、かつては豊富に収穫されていながらも、必要な分量の食糧をより多くの人々に対して適切に分配できなかった経験を踏まえて、食糧生産が減少する時代をどの様に生き抜くかが問われて来ます。
しかも、限られた食糧を分け合う相手が、かつて互いに血を流して争った者同士です。
その結果として一応の手打ちは、恐らくすることになると予測しますが、その様な相手と、ただでさえ貴重な食糧を分け合わなくては、お互いの命を長らえることが適いません。
もし、限りある食糧を分け合えなければ、更に多くの血が流れ、更に多くの土地が荒廃した結果、ただでさえ限りある食糧が、更に目減りする結果を避けられないでしょう。
霊媒の話によると、米国の拠点が開かれるのは、今からおよそ三百年くらい後のこととなる(今後の展開次第では前後する)そうです。





■ 巻物の第四の封印

イエスが第四の封印を開きます。
第六章第八節には、青い馬が現れたとあります。
その馬に乗っている者の名前は「死」といって、この者には陰府=地獄が従っていたとあります。
更に、彼らには地上の四分の一を支配すること、そして剣と飢饉と死によって、それから地上の野獣によって人を滅ぼす権威が与えられたとあります。
さて、第四の封印とはチベットの拠点であり、青い馬に乗っている者は、チベットの拠点を通じて働きかける霊界の住人を指します。
しかしそれでは、チベットの拠点を通じて働きかける霊界の住人とは死神であり、地上の四分の一に及ぶ地域において、紛争と飢饉による死をもたらし、また地上の野獣を使役して人を滅ぼすと読めます。
陰府・地獄を従えているので、死神は地獄に堕とす為に人の首を刈るのです。
これは一体どういう事でしょうか。
まず、第四の封印を開いた影響がおもに及ぶのは、青い馬に乗っている者が支配する、地上の四分の一の地域に限定されます。
当然ながらその周囲にも影響は及びますし、地上全体が何らかの影響を受ける可能性は否めませんが、最も深刻な影響が及ぶのは、黙示録に指定されている範囲でしょう。
そして、青い馬に乗っている者が支配するのは、拠点のあるチベットを中心とした地域になるでしょう。
ですから、現在は人口大国である中華人民共和国やインド共和国などは、特に大きな影響を受けるであろうと想定されますし、その近隣諸国も少なからぬ影響を免れないでしょう。
彼らは食糧供給が滞る事態になっても、自らの私利私欲の為に限りある食糧を独占し、奪い合って争うことを止めなかったので、その結果として自らがお互いにつぶし合って自滅するのです。
この地域には特に多くの人々が暮らしている為、つぶし合いによって自滅する人は膨大な数に上るでしょう。
その中でも、自らの愚かさを直視して行いを改める僅かな者のみが、この厳しい時代を乗り越えるチャンスを手にするのではないでしょうか。
霊媒の話によると、チベットの拠点が開かれるのは、今からおよそ三千年くらい後のこととなる(今後の展開次第では前後する)でしょう。





■ 巻物の第五の封印

イエスが第五の封印を開きます。
第六章第九節には、神の言葉と自分たちが立てた証しの為に殺された人々の魂を、祭壇の下に見たとあります。
第十節で彼らは、主に対して「いつまで地に住む者への裁きを行わないで、私たちの血を流した復讐をしないのですか」と訴えかけます。
続く第十一節では、彼らに白い衣が与えられると共に、かつて自分たちが殺されたのと同じように、今地上で殺されようとしている仲間の僕達の数が満ちるまで、しばらく待つように告げられます。
地上の様子が語られておりませんので、推測に頼るしかないのですが、巻物の第四の封印が開かれた時には地域を限定して起こった混乱が、更に地域を拡大して継続しているように伺えます。
第五の封印とはエルサレムの拠点を指しますので、少なくともエルサレムを中心とした一帯が、極めて深刻な状態に置かれているだろう事は想像できるのではないでしょうか。
その環境下で、神の言葉と自分たちが立てた証し=神の教えに沿っていたが故に、「異端の者」として殺されてしまった人々が、数多く存在したのでしょう。
しかし、彼らはただ殺されてしまったのではなく、白い衣を与えられて神の御許に控えることを許されました。
第九節で述べている祭壇とは、第八章第三節にあるように、玉座の前にある金の祭壇を指すと思われます。
もちろん、玉座とは主である父なる神の玉座です。
祭壇の下に集っていた魂の集団は、主に対して、「神の教えに沿っていた私たちを殺した者を裁いて、早く復讐をして下さい」と急かすように訴えるのですが、主は逆に、あなたたちと同じように、神の教えに沿っていた為に殺されてしまう人の数が満ちるまで、しばらく待つようにと諭します。
前回投稿した記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でも言及しておりますが、白い衣を与えられるのは勝利を得た者です。
ですから、祭壇に集う魂達は、たとえ「異端の者」の汚名を着せられて殺されようとも、死してなお聖書に記された神の言葉のままに貫いたので、人間としての死後に勝利を得た者と認められました。
そして神は、勝利を得た者の数がまだ足りないので、一定の人数に達するまで待つように促すのです。
今しばらくの間は、地上の混乱は止まる所を知りません。
霊媒の話によると、イスラエルの拠点が開かれるのは、今からおよそ八千年後のこととなる(今後の展開次第では前後する)でしょう。





■ 巻物の第六の封印

イエスが第六の封印を開きます。
第六章第十二節には、大地震が起き、太陽が“毛の粗い布地のように”暗くなって、月は全体が血のようになるとあります。
続く第十三節には、天の星が地に落ちた様子を、「イチジクの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされる」ようだと表現しております。
第十四節では、天は巻物が巻き取られる様に消え去り、山も島も元の場所から移ってしまう程の天変地異が襲った様です。
第十五節では、その様な天変地異を受けて、地上の王から奴隷から、あらゆる立場の人々が洞穴や山の岩間に隠れます。
そして第十六節で、山と岩に向かって、主とイエスの怒りから私たちを守ってくれと、乞い願うのです。
続く第十七節には、神とイエスの怒りの大いなる日が来たとあり、誰がそれに耐えられるだろうかと問いかけております。
さて、ここまでで黙示録の第七章が終わるのですが、巻物の第六の封印を開いた時の記述は第八章へと続きます。
そこでここまでの内容を前半として簡単にまとめておくと、第六の封印とはスーダンの拠点を指しますので、恐らく天変地異に襲われる舞台の中心は、スーダンの拠点があるアフリカ大陸となるでしょう。
しかし、その影響がどの程度の範囲に及ぶのか、もしくは地球全土を覆ってしまうのかは、現時点では読み解けません。
但し、第十二節に太陽と月についての言及がありますので、これが大気汚染の描写であったとすると、全地球的な何らかの影響は避けられないでしょう。
それは第十三節にある、天の星が落ちる描写についても言えますし、第十四節にある、山や島の位置すら変わってしまうという、地殻変動を暗示する描写についても同様に言えます。
その頃に地上で暮らしている人々の大半は、自らの誤った行いを悔い改めるのではなく、洞穴や山の岩間に隠れて、目の前の天変地異をやり過ごすことくらいしか思いつきませんでした。

さて、第七章に入って第一節~第三節には、大地の四隅に天使が立っているのを見たとあります。
この天使達は、大地の四隅から吹く風を抑えて、大地や海や木に吹き付けないようにしていたそうです。
更にもう一人の天使が、生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上がってきます。
この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使、つまり第一節で大地の四隅に立っていると説明された天使に向かって、こう言ったとあります。
我々が、神の僕達の額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならないと。
そして第四節~第八節に掛けては、イスラエルの子らの全部族の中から十四万四千人が刻印を押されていたとあります。
ところが第九節では、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった大群衆が、白い衣をまとい、ナツメヤシの枝を手に持って、主とイエスの前に現れます。
ここで述べるイスラエルの子らという表現は、単純に「かつて神と契約を結んだアブラハムの子孫」という意味ではなく、どの様な苦境に遭っても神の言葉に沿ってきた者という意味でしょう。
たとえアブラハムの子孫であっても、神の言葉に沿っていない者は天使の刻印を受けられず、逆にアブラハムの子孫でなくても、神の言葉に沿っている者は天使の刻印を受けられます。
ちなみに『ヨハネの黙示録』では、巻物の第七の封印を開くと共に、裁きの時が訪れる構成になっているのですが、霊媒の話によると、第一~第六の封印を開いた時にも、毎回裁きの時は訪れているそうです。
そして裁きの時に先だって、天使が神の言葉に沿っている者に刻印を押して回るそうです。
今はちょうど第二の封印を開いたばかりで、裁きの時と言われる時代が始まったばかりですので、ひょっとすると、今この記事をご覧のあなたの所にも、天使が刻印を押しに訪れているのかも知れませんね。
尤も、仮に天使が皆様の元を訪れていたとしても、霊的能力を使える方でないと確認できないかも知れませんが。
いずれにせよ、イエスが巻物の七つの封印を開く度に、続けて裁きの時代を潜り抜ける仕組みになっている様です。
前回投稿した記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でも簡単に述べましたが、霊媒の話によると、5月に観測された『環水平アーク』現象は、第二の封印を開いた時に起こる『神の裁き』の始まりを告げる天の印なのだそうです。
また、裁きの時には一体何が起きるのか、それから神の裁きの意味についても、今後投稿予定の記事で説明致しますので、それまで少々お待ち下さい。
続く第十節~第十二節にかけて、神とイエスを称える言葉が述べられます。
そして第十三節~第十七節では、長老の一人がこの様に述べます。
第九節で述べた、白い衣をまとう大群衆は、大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊(=イエス)の血で洗って白くしたのだと。
それ故に彼らは神の神殿で仕えることになり、飢え乾き、暑さ寒さに襲われる心配もなくなります。
ここで注意したいのですが、これはイエスの死を持って贖罪されるという意味ではありません。
イエスの人生、そしてイエスの死の意味を正しく理解し、迫害に遭うことも厭わずにその行いを見習い、その行いの意味や価値を確信が持てるまでに昇華した状態を述べております。
「何をしても懺悔をすれば許される」とするのは悪魔の教えです。
また、白い衣をまとった大群衆が、神の神殿で仕えることになる云々の部分は、彼らはもはや人間として積まなくてはならない経験を一通り積み終えたので、これからは霊界の住人の一員として、神が人間に対して働きかける作業の一部を分担して担うことを示しております。
それに伴い、彼らが何故これまで人間としての苦難に塗れた経験を積み重ねてきたか、そして神は何を目指していて、その中で彼らはどの様な役目を求められているのかを知ることになります。
霊媒の話によると、スーダンの拠点が開かれるのは、今からおよそ一万二千年くらい後のこととなる(今後の展開次第では前後する)でしょう。





■ 第一~第六の封印までのまとめ

今回は第一~第六の封印が開かれるまでの流れを追いながら、六つの封印とは、『銀の紐』などで以前から述べてきた『霊界と地上界を繋ぐ拠点』であるという点について解説してきました。
この度、じっくりと『ヨハネの黙示録』を拝見してみて、特に第一~第四の封印を開いた時についての記述は非常に簡単でしたので、ちょっと呆気ないと思われる方がいらっしゃるかも知れません。
この文章を書いたヨハネと名乗る方は(イエスが見せた幻を記録したと述べておりますが)、第七の封印を開いた時に重点を置いているようですので、相対的に他の部分は簡単な説明に留めているようです。
やはり『最後の審判』の時だからなのでしょうか。

ともあれ、いよいよ次回は第七の封印を開く時について取り上げます。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年7月11日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)

前回投稿の記事【『環水平アーク』現象が示すもの[謎解き編]】にて、去る5月に観測された『環水平アーク』と呼ばれる虹の様な現象に関連して、霊界の住人の方から寄せられたメッセージの解読を試みました。
その際に、霊界の住人の方より「このイメージと『ヨハネの黙示録』を併せて読むと、より深く内容を理解できる」とのアドバイスがありましたので、今回から何回かに渡って『ヨハネの黙示録』の内容を読み解いてゆきたいと思います。





■ ヨハネの黙示録を読み込む為の準備

作業を始める前に、幾つか確認しておきたいことがあります。
ご覧の皆様もご存じのことと思いますが、『ヨハネの黙示録』は新約聖書に収められており、また新約聖書はキリスト教会の教典として扱われて来ました。
その為に、いわゆるキリスト教的価値観の大きな影響を受けた文章となっております。
しかし、これから解説するヨハネの黙示録の文面にも記されているように、キリスト教的価値観の影響により、ヨハネの黙示録に込められた本来の意味合いが歪められた状態のまま、今日まで伝わって来ました。
そこで、キリスト教的価値観によって装飾された記述を解釈し直すことによって、ヨハネの黙示録に込められたメッセージの核心に迫りたいと思います。

なお、これからご紹介する『ヨハネの黙示録』についての解説は、あくまで現時点における霊界の住人の方のアドバイスを参考に、管理人が文章に纏めて再構成したものです。
作業に当たっては、霊界の住人の方の助言と確認のもとに進めておりますが、霊界通信の特性により、「現時点で有効と思われる解釈である」と強調しておきます。
後ほどご説明致しますが、『ヨハネの黙示録』の構成が複雑であり、また『ヨハネの黙示録』は遙か過去の時代に書かれた文章でありながら、遙か後の世に伝え読まれることを想定した表現を用いております。
ですから、時代が移り変わって世の中の価値観が変わっても、ある程度意味合いが通じるように書かれているのですが、反面表現の曖昧さが誤った解釈に繋がってしまう可能性を秘めております。

そこで、実際に『ヨハネの黙示録』の解読に入る前に、最低限必要と思われる予備知識の確認をしておきましょう。
とはいえ、以前より『銀の紐』をご覧の皆様には既にご存じのことと思いますが、この度初めてご覧になる方に向けて、改めて簡単に説明致しますので、既にご存じの方は復習を兼ねて少々お付き合い下さい。





■ 『神の目的』及び『霊界と地上界を繋ぐ拠点』について

神様が人間に対して働きかけるのは、人間の霊的成長を促し、この宇宙に存在する全ての霊を神の境涯へ導く為です。
そして、神様が地球上に存在する全ての生命――特に自ら知的創造活動を行う人類に対して働きかける手段の一つとして、地球上の六カ所に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』が作られました。
神様はこの拠点を通じて、管理人が「創造性と思考力を活性化させるエネルギー」と呼ぶ霊的エネルギーを霊界から地上界へ向けて流すことにより、人間の霊的成長を促す働きかけを行って参りました。
さて、地球上の六カ所にある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』とは、以下の場所にあります。
東京、バチカン、米国もしくはカナダ(五大湖周辺)、チベット、エルサレム、スーダンの六カ所です。
そのうち、東京の拠点は人類が誕生する際に、六カ所の拠点の最後に開かれて以来、現在までずっと開かれたまま機能しております。
その他の五カ所の拠点は、人類が誕生する際には開かれていたものの、その後順次閉じられ、次に必要とされる時が来るまで閉じられたままとなっておりました。
そして去る2011年の12月に、二番目となるバチカンの拠点が開かれました。
それまでは東京の拠点一カ所から全世界へ向けて送られていた霊的エネルギーは、現在では東京とバチカンの二カ所の拠点から、全世界へ向けて送られております。
ここまで『霊界と地上界を繋ぐ拠点』について、簡単に説明してきましたが、それぞれの拠点には霊界から送られた霊的エネルギーを一旦受け取って、人間に馴染むように性質を変換して送り出す役割――霊媒Mや管理人が『覡(かんなぎ)』と呼ぶ役割の方がおります。
東京の拠点の覡は歴代の天皇が務め、バチカンの拠点の覡は歴代のローマ教皇が務めます――とはいえ、バチカンの拠点は開いたばかりですので、実際に覡を務めているのは先代の教皇からです。
現在は閉じている四カ所の拠点には、今のところ覡を務めている方はおりません。
しかし、遙かな昔に閉じられた拠点の守人を委ねられ、いずれ必要とされる時期に拠点の覡を産み出す苗床となる種族が各拠点ごとに居り、各々の拠点が開かれるまで雌伏の時を過ごしております。

関係する参考資料としては、以下をご覧下さい。
『銀の紐を越えて』掲載記事【『霊界と地上界を繋ぐ拠点』と日本の役割について(メッセージ107)】
『銀の紐を越えてα』掲載記事【宇宙の構造と神々や人間が目指すもの[メッセージ修正版01]】
『銀の紐を越えてα』掲載記事【霊界と地上界を繋ぐ拠点と霊的エネルギーの役割[メッセージ修正版02]】





■ ヨハネがアジア州にある七つの教会に向けて書いた手紙

これから、実際に『ヨハネの黙示録』の文面を追いながら、その言葉に秘められた意味合いを繙いてゆきます。
諸般の事情により、聖書に記されている文章を、記事の中で直接引用は致しません。
その代わりとして、実際に『ヨハネの黙示録』を読みながら、「概ね~の様に述べている」というように、文章の概要を紹介しながら解説を進めてゆきますので、記事に目を通すだけでも内容をご理解頂けるのではないかと思います。
しかし、実際に『ヨハネの黙示録』を読み込んでゆくと、細かな表現にも特定の意味合いを込めている様に感じますので、もし可能な環境でしたら聖書を手元に置いて頂いて、この解説と聖書の文面を照らし合わせてゆくと、一層理解が深まるのではないでしょうか。

さて、『ヨハネの黙示録』の冒頭には、神様から知らされた将来に起こる出来事の幻を、イエスが天使を通じてヨハネに見せたと、この文章が書かれた目的が示されております。
そして、アジア州にある七つの教会に手紙を送るように指示されておりますが、ここで示されている七つの教会とは、上の予備知識で説明した『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指すのだと、霊界の住人は述べております。
しかし、先程『霊界と地上界を繋ぐ拠点』は世界中に六カ所あると述べましたので、アジア州にある七つの教会には一カ所足りません。
そこで改めて霊界の住人に伺った所、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』六カ所+αの、計七者に対するメッセージなのだそうです。
この+αの正体については、記事を読み進めるうちに明らかになってゆきます。
また、七つの教会に向けて書かれた手紙は、いずれも教会の天使宛となっております。
天使とは神の使いであり、神と直接の繋がりを持って神の御用を補助する者ですから、主に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の覡と守人に向けたメッセージと受け取れば良いでしょうか。

では、アジア州にある七つの教会に向けて書かれた手紙の内容を、順番に見てゆきましょう。





■ エフェソにある教会の天使への手紙

第二章の最初に、エフェソにある教会の天使に向けた手紙が示されております。
第二節では使徒と偽る者を見抜いたと記され、第三節ではイエスの名の為に我慢をしたと記されております。
さて、「イエスの名の為に」とは、どういう事なのでしょうか。
これは、イエスの名によって代表される宗教と言うことで、キリスト教とその拠点であるバチカンを指しているのでしょう。
つまり、キリスト教を維持する事によって、神の言葉を記した聖書を後の世に伝え、また神が地上界に直接働きかける為の拠点であるバチカンを守り抜いたと言う意味ではないでしょうか。
しかし、第三節では初めの頃の愛がなくなってしまった=キリスト教が形骸化して、神の言葉を見失ってしまったと指摘し、第四節では悔い改めて初めの頃の行いに立ち戻るよう、諭しております。
更に、悔い改めなければ、あなたの燭台を取りのけてしまうと述べております。
第一章第十九節には、七つの燭台は七つの教会であるとあり、前の項で述べたように教会とは『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指しますので、悔い改めなければバチカンの拠点を取りのけてしまうと言う意味でしょうか。
『霊界と地上界を繋ぐ拠点』としての機能の核心は覡にありますから、本来の神の言葉を見失ってしまったキリスト教の聖職者達に囲まれた、ローマ教皇の不安定な立場を暗示しているような表現です。
続く第六節では、ニコライ派の者達の行いを憎んでいるのが取り柄だと述べております。
イエスも憎んでいるというニコライ派の行いとは何でしょうか。
ここまで読み進めてきた皆様でしたら、何となく想像できるのではないかと思いますが、言わばキリスト教とは、バチカンの拠点が開かれる時まで、神の言葉を記した聖書とバチカンの拠点を維持し、それら全てを後の世に伝えてゆく為の箱船であり、またバチカンの拠点が開かれた後は、神様が人間の成長を促す為の働きかけを行う為の重要拠点として機能します。
そのバチカンの拠点を放棄し、神様の意向を無視して勝手に『神の使徒』と称して人心を惑わす、プロテスタント、東方教会などの諸教派こそが、イエスも憎んでいるというニコライ派の正体です。
そしてエフェソにある教会への手紙の最後には、勝利を得る者には神の楽園の命の木の実を食べさせると述べて終わるのですが、これはどういう事でしょうか。
神の楽園と言えば、旧約聖書の創世記に記されたエデンの園を思い浮かべます。
そこで創世記を見ると、第三章二十二節には、命の木の実を食べると永遠に生きるものになるとあります。
勝利――つまり悪魔サタンに勝利すると、神の楽園に迎えられて永遠に生きるものになると、バチカンの拠点の覡や守人達に述べているのです。
そこで、神の楽園や永遠の命についても気になる所ですが、その説明は後ほど行うとして、次の手紙を見てゆきましょう。





■ スミルナにある教会の天使への手紙

二通目は、スミルナにある教会の天使に宛てた手紙です。
第二章第九節~第十節にかけて、スミルナにある教会の天使が置かれている状況が述べられております。
苦難と貧しさの下に置かれ、また自らをユダヤ人と名乗る者によって非難されているようです。
それは一体誰なのかと、霊界の住人の方に伺ってみると、アブラハムの子孫を指すのだそうです。
旧約聖書の創世記にも記されているように、神様との間に永遠の契約を結んだ、あのアブラハムの子孫達です。
そして、自らをユダヤ人と名乗っているが、実はユダヤ人を騙ってサタンに与する者に虐げられているようです。
と言うことで、スミルナにある教会とは、今は閉じているエルサレムの拠点を指します。
そして恐らく、今のエルサレムを統治するイスラエル国の内情を調べてみると、アブラハムの子孫とは誰なのか、そしてユダヤ人を騙る悪魔サタンの仲間は誰なのかが想定できそうな気はしますが、ここではご覧の皆様の想像にお任せして、先へ進みます。
さて、イエスはスミルナにある教会の天使に対して、苦難や貧しさの中に置かれていても、本当は豊かなのだと述べております。
貧しくても豊かとはどういう事でしょうか。
アブラハムの子孫達は、かつて神との間に結んだ契約に基づいて、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』のうち、エルサレムの拠点の守人としての務めを全うして来ました。
ですから、物質的・経済的には貧しい環境に置かれていても、かつて契約を交わした神様との繋がりにおいては豊かであると言うことです。
そしてアブラハムの子孫達は、悪魔の試みによって、これからも様々な苦難を乗り越えなくてはなりません。
彼らのうちの一部は牢に放り込まれ、十日の間苦しめられるだろうと告げられております。
更にイエスは、アブラハムの子孫に対して、それでも死に至るまで(神との契約に対して)忠実であるように求めております。
そうすれば命の冠が与えられるそうなのですが、それは人間として死後に果たされると思われます。
ですから、第十一節で述べているように、勝利を得る者は第二の死から害を受けることはないのでしょう。
そこで第二の死とは何を指すのか、気になる所ではありますが、この点については後ほど説明することとして、次の手紙を見て参りましょう。





■ ペルガモンにある教会の天使への手紙

三通目は、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙です。
第十三節にて、冒頭イエスは、そこにサタンの王座があると述べております。
また、私の忠実な証人としてアンティパスの名が上げられておりますが、wikipediaによりますと、この人物ヘロデ・アンティパスは、ユダヤがローマ帝国の保護国であった時期からユダヤ属州となった時期に、属州から免れたユダヤの分割領土を治めた領主だそうです。
つまり、ペルガモンにある教会とは、かつてどこかの国の保護国か植民地であり、後にその土地の領主が殺されて、サタンが王国を築いた場所です。
私の名をしっかり守って、私に対する信仰を捨てなかったとのことですので、その様な状態にあっても『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人としての務めを果たし続けているのでしょう。
さて、霊界の住人によると、そこは米国なのだそうです。
そこで改めて調べてみると、米国には『イロコイ連邦』という、オンタリオ湖南岸からカナダに跨がって保留地を領有する、六つのインディアン部族による部族国家集団があるのだそうです。
現時点では、米国の拠点は五大湖周辺にあるだろうという程度の確認しか取れておりませんが、この『イロコイ連邦』を構成する部族が米国の拠点の守人である可能性はありそうです。
しかし第十四節で、イエスはあなたに対して言うべき事があると述べております。
ここでバラムとバラクという人物が出て来ますので、簡単に説明しておきましょう。
旧約聖書の民数記第二十二章~第二十五章にて一連の事件が語られ、民数記第三十一章では事件の真相が述べられております。
占い師バラムが、イスラエルの民を主に背かせる為に女たちを唆したと言うエピソードが、ここでイエスの警告する意図を理解する助けとなります。
黙示録に戻って、第十四節を読み進めてゆくと、彼らに「偶像に捧げた肉を食べさせる」とあります。
これは霊界の住人によると、悪魔を信奉し、その恩恵に預かることを指すのだそうです。
本来なら受け取れる立場にないものを、当然の権利とうそぶいて強引に奪い取ったり、正当な手順を踏まずに、身勝手な解釈で物事を推し進める行為、不正な手段によって富を独占するといった行為や、物の考え方を表しているそうです。
それらの、生命力を衰えさせる行為は、偶像に捧げた肉を食べる行為に等しく、迫害や価値観の押しつけなどは邪悪な行為とされます。
逆に、神の教えに沿った行為とは、生命力を豊かに強くするものなのだそうです。
ですから、米国の拠点の守人達の中には、神の教えに背かせようとするバラムの唆しに乗せられている者がいるということなのでしょう。
また民数記で、占い師バラムに頼んでイスラエルの民に呪いを掛けようとしたモアブ人のバラク王と、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏の名前と立場が一致するのは、単なる偶然の為せる業なのでしょうか。
更に第十五節へ読み進むと、エフェソにある教会への手紙と同様に、ここにもニコライ派が出て来ます。
米国の宗教事情を調べてみれば、さもありなんという所でしょうか。
その様な状態ですので、第十六節でイエスは悔い改めよと呼びかけ、改めない者に対しては私の口の剣で戦おうと述べております。
口の剣とは、口から発するもので、悔い改めない者の言い分を「間違っている」と証明することによって断ち切るものであり、それはイエスの口から発するものでなくてはなりません。
その様に考えてゆくと、恐らく「聖書に記されたイエスの言葉が、後に実現することによって、物事の真偽が明らかにされる」という意味でありましょうか。
続く第十七節には、勝利を得る者には隠されていたマンナを与えるとあり、また白い小石を与えるとあります。
その白い小石には、受け取る者の他には誰にも分からない新しい名が記されているとありますが、マンナ、そして新しい名が記されている白い石とは何でしょうか。
マンナとは、旧約聖書の出エジプト記第十六章に出てくる、主がイスラエルの民のために天から降らせたパンを指すようです。
それは砂漠で飢えていた民の命を長らえる生命力を象徴します。
そして白い小石とは、古代ローマでは裁判の判決に白い小石と黒い小石を用いて投票することにより、被疑者の無罪・有罪の判断をしていたそうです。
また、その白い小石には、これを受ける者の他には誰も分からない、新しい名前が記されているとあります。
第十三節にも、あなたは私の名前をしっかり守ってきたとありますが、勝利を得る者に与えられる白い石には、別の新しい名前が記されているそうです。
それはつまり、米国の拠点はキリスト教とは異なる者によって開かれるけれども、その新しく開かれた拠点の覡はイエスと繋がっていると言うことなのではないでしょうか。





■ ティラティアにある教会の天使への手紙

四通目は、ティラティアにある教会の天使に宛てた手紙です。
第十九節には、イエスの行いや愛、信仰、奉仕、忍耐を知っているとあり、更に、近頃の行いが最初の頃の行いに優っていると、ここまでの三通と比べると絶賛と言っていい褒め具合です。
しかし、イゼベルという女のすることを大目に見ているのは問題であると指摘しております。
霊界の住人によると、ティラティアにある教会とは日本の拠点であり、またイゼベルという女は朝鮮を指すのだそうです。
ここまでの三通は、いずれもキリスト教と歴史的な関わりのある土地の拠点について取り上げられてきましたが、キリスト教的価値観から見ると、何故黙示録の中に日本と朝鮮が現れるのか、少々不可解な気がします。
しかし、ティラティアにある教会を日本と仮定して第十九節を読み返すと、近頃のあなたの行いが最初の頃より優っているとありますが、これは明治天皇以降の歴代天皇は、拠点の覡としての役割分担が増している点と符合すると考えると、何だかしっくり当て嵌まるような気がしませんか。
この様に、一通りヨハネの黙示録の解説をご覧になることによってご理解頂けると期待して、話を先へ進めましょう。
そして、改めてティラティアにある教会への手紙を眺めると、イエスが諫めているのはイゼベルの行いと、イゼベルに惑わされている人々であって、ティラティアにある教会の天使に対しては、イエスがそこへ行く時まで今持っているものを固く守るように述べております。
つまり、ティラティアにある教会の天使については、イゼベルの扱い以外は全て正しいので、その状態を維持するようにと言っているのです。
それに加えて、イゼベルという女に関連して、以下のように述べております。
イゼベルは自分が預言者=神の言葉を聞けるのだと偽って、イエスの教えを信仰する者を騙し、惑わせて、『偶像に捧げた肉を食べさせている』とあります。
ここで、ペルガモンにある教会への手紙にあった『偶像に捧げた肉を食べさせている』という表現が、再び出て来ました。
つまり、イゼベルという女は預言者と偽っているものの、実は悪魔を信奉し、その恩恵に預かっている者だと言うことです。
第二十一節には、イエスがイゼベルに悔い改める為の機会を与えたとありますが、この機会とは日本が朝鮮を併合した時代に当たるそうです。
しかし、それでもイゼベルは悔い改めません=日本統治時代の経験に何も学べなかったのでした。
イエスはこの様に続けます。
イゼベルを床に伏せさせ、またイゼベルと共に淫らな行いをする者達も、“その行いを悔い改めないなら”酷い苦しみに遭わせようと述べております。
イゼベルが床に伏せさせられるのは、既に確定しております。
しかし、イゼベルと共に淫らな行いをする者=日本国民でありながら朝鮮に与している者には、その行いを悔い改める為の猶予が、まだ残されております。
その機会を有効に活かして悔い改めるのか、あるいは悔い改めず苦しみに遭わされるのかは、本人の判断に委ねられております。
続く第二十三節には、イゼベルの子供達を打ち殺そうとあります。
今後どの様な経緯を辿るのかは分かりませんが、自らサタンの行いに明け暮れ、悔い改める機会を活かせなかったイゼベルは、やがて何らかの形で子孫を無き者とされることになるのでしょう。
そして、全教会=世界中の人々――は、イエスが人の思いや判断を見通す者だと言うことを悟るようになると述べ、あなた方が行ったことについて一人一人に報いよう=全ての因果が誰の目にも分かりやすく巡ると述べております。
第二十四節には、ティラティアの人達=日本国民の中で、イゼベルの教え=悪魔を信仰し、その恩恵に預かることを受け入れず、サタンの奥深い秘密=サタンの本性や性質を知らない人々には、別の重荷を負わせない=イゼベルによる迷惑行為以外の負担は負わせない――とあります。
ティラティアにある教会の天使は、今持っているものを頑なに守っていれば、イエスがイゼベルの行いに見合った結末に導いてくれるそうです。
そして第二十六節~第二十八節にかけて、イエスは勝利を得る者に、諸国の民の上に立つ権威を授けると述べております。
それはかつて父なる神がイエスに授けた権威であり、それがここで勝利を得る者に受け継がれることを示しております。
この点については、ヨハネの黙示録の解説を全て終えてからの方が、すんなりとご理解頂けると思いますので、説明を保留にして次の手紙を見ていきましょう。





■ サルディスにある教会の天使への手紙

五通目は、サルディスにある教会の天使に宛てた手紙です。
第三章第一節で、早くもあなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいると述べております。
続く第二節で目覚めを促されているので、文字通り死んでいるのではなくて、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人として、全く機能していないと言うことなのでしょう。
死にかけている残りの者達を強めよとありますので、拠点の守人としての役割に支障が出る程深刻な影響が現れている様子が伺えます。
そこで第三節では、どの様に(拠点の守人の役目を)受け、(その役目の意義を)聞いたかを思い起こして、(拠点を)守り抜くように、悔い改めよとイエスに諭されております。
そして、目を覚まさないものに対して、イエスは盗人のように行くと述べております。
別に、誰にも気づかれないように、抜き足差し足でこっそり現れると言うだけでなく、盗人が盗み取るようにして、本人の知らないうちに拠点の守人としての役目を剥奪するという意味です。
さて、この様にして、イエスから見ると目も当てられないような酷い有様の守人達のいる、サルディスにある教会とは、一体どこでしょうか。
霊界の住人によると、サルディスにある教会とは、アフリカのスーダンにある拠点を指すのだそうです。
こちらの拠点は、世界に六カ所ある拠点の中で一番最初に開いた拠点であり、人類が誕生した後に一番早く閉じた拠点です。
そして、これから時間の経過と共に順次開いてゆく拠点のうち、一番最後に開く拠点となります。
さて、スーダンの現状をご覧になれば、イエスにこの様な評価をされてしまうのは、致し方ないのではないでしょうか。
しかし第四節では、少数ながら衣を汚さなかった者=拠点の守人としての務めを果たしている者がおり、白い衣を着てイエスと共に歩くと述べております。
そして第五節では、勝利を得る者は白い衣を着せられること、そして命の書から名前を消されることはなく、神や天使の前で公表すると述べております。
命の書とは、ヨハネの黙示録第二十章第十二節~第十五節に、命の書に名前のないものは火の池に投げ込まれたとあり、この火の池が第二の死とありますので、ここで勝利を得る者は第二の死を免れることになります。
第二の死については、スミルナにある教会への手紙にも言及がありますので、まとめて後ほど解説したいと思います。





■ フィラデルフィアにある教会の天使への手紙

六通目は、フィラデルフィアにある教会の天使に宛てた手紙です。
第三章第八節では、イエスがフィラデルフィアにある教会の天使の前に門を開け、その門は誰も閉めることが出来ないと述べております。
そしてあなたは力が弱いけれども、イエスの言葉を守り、イエスを知らないとは言わなかったとあります。
霊界の住人によると、フィラデルフィアとはチベットを指すのだそうです。
そこで改めて第八節をチベットの歴史と照らし合わせてゆくと、興味深い事実が明らかになってゆきます。
七世紀頃の吐蕃王朝成立を持って、実質的なチベット国の建国と見なされているようですが、以後、モンゴルや明との関わりは冊封と朝貢により、また内政は不安定な時期が続くようです。
その後、十七世紀になってダライラマ政権が確立すると、内政は安定化していきますが、明に変わって台頭する清に征服されてしまいます。
清朝の滅亡後、チベットは独立を宣言してダライラマ政権を樹立しましたが、後に中華人民共和国によるチベット侵攻により征服されて、現在に至ります。
ここで強調しておきたいのは、清によるチベット支配は、チベット仏教とダライラマに対する一定の配慮を示しておりましたが、中華人民共和国は今もなおチベット仏教とダライラマを徹底的に弾圧しております。
そして現在、ダライラマ法王はインドに亡命政権を樹立するとともに、世界的に著名な仏教指導者の一人として活動しております。
そんなダライラマ法王の活動の一かけらを、当Blogでも記事【ダライラマ法王を拝見して】にて紹介しました。
以上を考慮して再び第八節に目を向けると、イエスによって開けられた門によって、ダライラマ法王はインドへの逃亡を余儀なくされ、中共の侵略によりチベットの民は塗炭の苦しみを受けております。
それは力が弱いから避けられないのだけれども、私の言葉を守り、私の名を知らないとは言わなかった=チベットはキリスト教を信仰しているわけではないけれども、彼らのチベット仏教の本質はイエスの言葉に通じていて、なおかつ中共の弾圧にも負けずに自らの信仰を守り続けていることを示しております。
そして第九節では、サタンの集いに属していて、自分がユダヤ人だと述べる者が出て来ます。
それはユダヤ人だと偽っているのですが、イエス自身がフィラデルフィアの天使を愛していると話して、足下にひれ伏すようにすると述べております。
そういえば、ユダヤ人を騙ってサタンの集いに属する者は、スミルナにある教会への手紙にも出て来ました。
彼らはアブラハムの子孫を非難しておりますが、いずれチベットの拠点が開かれる頃になると、自らの過ちを自覚してひれ伏すようになるのでしょうか。
次の第十節では、イエスはよく忍耐したとねぎらい、地上に住む人々を試す為に全世界で起ころうとしている試練から守ろうと述べております。
この点については、次の章以降で詳しく説明致しますが、この場では、いわゆるキリスト教的価値観で言う神の審判のことを指しているとだけ、述べておきます。
続く第十一節では、栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守るように述べております。
つまり、これまでの行いの中で既に栄冠を得ているので、それをきちんと守るようにと、念を押されているのです。
更に第十二節には、勝利を得る者を神の神殿の柱にすると述べております。
続けて、もう決して外へ出ることはないとありますが、これは二重の意味合いを持たせているのでしょう。
一つ目は、ここで勝利を得る者は、その後人として地上に生まれることはなく、神の神殿の柱=神の目的を神の傍で補佐するようになるという意味でしょう。
そして二つ目は、チベット国が再建されてダライラマ法王が帰還し、その後チベットの拠点が開かれる事になるので、今後のチベット国再建の後は、二度とチベット国が他国の脅威に襲われないという意味でしょう。
だからこそ、イエスの神の名と、イエスの神の新しい都の名そしてイエスの名を書き記すことになるのではないでしょうか。





■ ラオディキアにある教会の天使への手紙

ここまでに六通の手紙を見てきましたが、いずれも『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人に宛てた手紙であると言うのが、当Blogの見解です。
そして、記事の冒頭で説明しましたように、世界には六カ所の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』があります。
しかし、イエスはヨハネに、七通の手紙を送るようにと指示しておりました。
それでは、残る一通の手紙、ラオディキアにある教会の天使とは、一体何を指すのでしょうか。
第三章第十五節~第十六節では、イエスが、あなたは冷たくも熱くもないと述べております。
冷たいか熱いかのどちらかであって欲しいが、生温いので、あなたを口から吐き出そうとしているそうです。
これは一体どういう事でしょうか。
次の第十七節では、私は金持ちで満ちたりていると言っている人に対して、自分が惨めで、哀れで、貧しくて、目が見えなくて、裸であることをわかっていないと指摘しています。
お金や物を集めて満足する、言わば「物質的な充足を重視する価値観」は、イエスから見ると貧しいと言うことです。
記事の冒頭で「神の目的」について簡単に説明しましたが、人間を含む全ての霊的な存在を神の境涯へ導くのが神の目的なのですから、物質に拘っている間はいつまでも神の境涯には近づけません。
と言うことで、ラオディキアにある教会の天使とは、前の六通に当て嵌まらない(私たちやこの記事をご覧の皆様を含めた)全ての方を対象としていると思うのですが、いかがでしょうか。
そう考えると、第十五節~第十六節についても、物事の善し悪しや正邪の違いはともかく、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人達や、逆にサタンとそれに集う者達は、何らかの明確な信念や目的意識を持っていますが、それ以外の方は、明確な考えもなく、周りの様子を見て右往左往しているだけだとイエスは見ていることになります。
つまり、私たちやご覧の皆様のうちの多くの方にとって、この後に述べられている事はとても気になります。
第十八節では、イエスは次のことを勧めております。
一つ目は裕福になるように、火で洗練された金をイエスから買うように。
ここでイエスは、あなたが貧しいのは不純物が混ざった原石だからなので、火で洗練された金のように、あなたを裕福にしようと訴えかけております。
二つ目は裸の恥を晒さないように、身につける白い衣を買うように。
ここで述べている白い衣とは、サルディスの教会への手紙で、勝利を得る者が着る白い衣です。
イエスのアドバイスを活かせば、あなたにも勝利を得る者への道が開けます。
三つ目は見えるようになる為に、目に塗る薬を買うように。
イエスは、物質が見えていても目が見えていないのと同じ――物事の道理が見えるように、目に見える薬を買いなさいと述べています。
この目に塗る薬とは、例えば聖書を指すのだと思いますが、当Blogやご覧の記事が目に塗る薬の処方箋の極一部として皆様に感じて頂ければ、記事を投稿する意義はあったと思います。
ですから、第十九節でイエスは、愛する者を叱ったり、鍛えたりしながら洗練させてゆくので、手紙を送られた皆様に悔い改めて、熱心に努めるように訴えております。
第二十節では、イエスは戸口を叩いて、あなたが気づくのを待っているので、あなたが気づいて扉を開けさえすれば、イエスも共に食事をする、つまり共に歩むと述べております。
第二十一章では、勝利を得る者を、イエス自身の座に共に座らせる――つまり今後はイエスと共に霊界から働きかけるようになると述べております。
それは、かつてのイエス自身も、父なる神の支えによって玉座に着いたので、それと同じ事なのだそうです。

一言でまとめれば、ラオディキアにある教会の天使と表現されている大多数の人々に対して、イエス自身が助力をして導くので、自分自身を鍛えて下さい。
それが成し遂げられた暁には、私イエスの同志として共に活動することになります――その様に訴えかけていることになります。
さて、イエスの訴えかけに対して、ご覧の皆様はどの様に答えられますか。





■ ヨハネの黙示録は、イエスから現代を生きる人々へのメッセージ

ここまでは、ヨハネの黙示録の第一章~第三章にかけての解説をお届けしましたが、ご覧の皆様にとっても気になる疑問があるのではないでしょうか。
その一つは、冒頭のアジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙が、何故現代を生きる私たちへのメッセージなのか、と言う点だと思います。
詳しくは、今後黙示録の流れを追っていく中から徐々に明らかにしてゆきたいと思いますが、この場で簡単に説明すると、ヨハネの黙示録の第五章からの記述は、日本で言う明治時代以降の行く末を大まかに述べております。
そして、ヨハネの黙示録は新約聖書に束ねられておりますので、キリスト教を通じて伝えられる物であり、またバチカンの拠点開放と重要な関わりを持っております。
つまり、2011年にバチカンの拠点が開かれましたので、いよいよ審判の時期が始まります。
そして、記事【『環水平アーク』現象が示すもの[謎掛け編]】【同[謎解き編]】で取り上げた霊界の住人のメッセージは、ヨハネの黙示録の内容とシンクロしており、また5月に見られた環水平アーク現象は、審判の開始を告げる空の印なのだそうです。

次回以降にて、審判の時期がどの様に進んでゆくのか、そして審判の結果どうなってしまうのかなどについて、黙示録の文面を辿りながら徐々に明らかにしてゆきたいと思います。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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