2016年9月30日金曜日

[黙示録再解読]:小羊が神の巻物の封印を開く

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■ 小羊が巻物の第一の封印を開く

このテーマについては、以前の黙示録解読の際に一通り解説していますので、基本的には人間視点から見た以前の解読と、神の視点から見た今回の内容を比較して、適宜補足を加える方向で進めます。

黙示録の第六章第一節~二節で、小羊が神の巻物の第一の封印を開きます。
すると白い馬が現れて、それに乗っている者が弓を持っていました。
彼は既に勝利を得ており、冠を与えられているので、イエスと同じ立場で、地上の諸国民を神の玉座の御許へ導く為に、神と人々の間に立って人々を束ねていた者だと言うことが分かります。
既に黙示録解読関連の記事で度々述べているように、巻物の第一の封印とは、「霊界と地上界を繋ぐ日本の拠点」を指すと解釈しています。
霊界の住人の情報として、霊界と地上界を繋ぐ拠点は世界に六カ所あり、それぞれが黙示録にある神の巻物の第一~第六の封印に当て嵌まると推定していますが、第一の封印である日本の拠点は、人類が地上に誕生する際に六カ所の拠点が作られた後、現在までずっと開いたままの状態にある唯一の拠点です。
しかし、第一の封印が開いた時期と推定される明治維新の頃までは、日本の拠点は開いていても能力が抑制された状態に置かれていました。
その、日本の拠点の能力を発揮できるようにしたのが、巻物の第一の封印を解いて開いた時期であり、既に開いていた拠点の能力を拡充したので、勝利の上に勝利を重ねようとしたと言うのが、第一の解釈となります。
第二の解釈として、かつてイエスが神の言葉を証ししたことによって勝利を得たように、既に拠点を開いていた日本が新たに神の言葉を証しする為の機会としたとして、国内向けには『教育勅語』が、海外向けにはパリ講和会議における日本の『人種差別撤廃提案』が根拠として挙げられるというのが、第二の解釈となります。

以上の、人間視点から見た巻物の第一の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、悪魔の傲りが人間を増長させたことにより、返って巻物の封印が開かれて神の言葉が成就するという、皮肉な結果を招きます。
第一の封印が開く時に、人間に第一の試練が訪れます。
第一の封印を開くと、最初に四つの生き物の一つが、雷のような声で「出てこい」と言いますが、雷のような声とは、第一の封印がある日本を世界の表舞台へ引きずり出して、争いに巻き込むことを意味します。
雷は弾薬が発する爆音を表します。
また、この時から『神の裁き』が繰り返されることになるので、人類が滅亡する時期の『最後の審判』に向けた一連の裁きが始まる合図であり、雷という表現によって人間がこれから経験することになる様々な試練を表しています。
今までの日本は、神の手によって用意された揺りかごの中で生きる時を過ごしてきましたが、この時点から日本は、神とともに暮らし、身近に神と接する中から教わり育んできた知恵を、他国との関わり合いの中で実践し、その有効性を証明する役割を担っていました。
この時の日本は、周囲に味方が居らず、悪魔に籠絡された勢力に取り囲まれるという、とても困難な状態に置かれます。

曰く、「勝利の上に勝利を重ねる」とは、神が守り育ててきた価値観を宿す日本が、悪魔の価値観が蔓延る国々に囲まれながらも我を見失わずに、神から伝えられた知恵を絶やすことなく子々孫々に至るまで守り伝えて、繁栄し続けられることを証明してみせるところにあります。
神との間に築かれた強固な絆は、幾度もの苦難に見舞われようと失われることなく、次世代へ受け継がれることを体現してみせる国が日本です。
その役割を象徴する存在が天皇です。
日本を今のままに守りたければ、日本は何があっても天皇を守り、神と人との絆が断たれることを阻止しなくてはなりません。
周辺国の価値観に惑わされることなく、日本にとって一番大切なものを守り抜く覚悟が必要となります。
この重要性が周辺国に理解されることはまずないでしょう。
それは日本においてのみ実現されていることだからであり、過去から現在に至るまでその状況は何一つ変わっていません。
それを理解できない相手から無理に理解を得ようと思ってはいけません。
周辺国には無い価値観に理解を求めるのは酷な話なのですから、自分たちの価値観が世界の中で独特であることを自覚し、その中で自分たちの身を守り抜く覚悟を決めた方が良いでしょう。
日本は「神との繋がり」という意味において、他国とは異なる環境に置かれてきたのですから、周辺国に理解されないのは当たり前だと改めて認識し、理解されないことを前提にして国を守らなくてはなりません。
今は、理解できるだけの経験を積んでいない相手に理解を求め続けて、他国に対する価値観の押しつけになってはいけません。
個人的に日本に愛着を持ち、日本の伝統文化に慣れ親しんでそれを守りたいと願う外国人は存在しますが、外国人全体から見れば極僅かです。
また、日本の伝統文化に親しむ外国人でも、天皇を一国の王という位置づけでしか捉えておらず、神と人の間を繋ぐ接点としての役割と存在の重要性は到底理解できないでしょう。
殆どの外国人は他国に興味が無く、自分の生活を支えることに手一杯です。
当の日本人にしても、天皇の役割の重要性を理解している人の割合は少ないのですが、細かい理屈は分からなくとも、多くの者が天皇という存在を大切に思っています。
日本の独特な価値観や天皇について理解ある外国人を増やす努力は、長期的に見れば有意義なことではありますが、今それ程悠長に構えていては、事が成就する前に日本が消滅してしまう可能性も考えながら、その時に合わせて適切な方法を採らなくてはなりません。
今の日本国民に求められるのは、日本の独特な価値観や天皇の重要性などについて、周辺国に暮らす人々が理解できるようになる時まで、日本という国を守って存続させることなのです。
名前だけ「日本国」が生きながらえても、中身が従来の日本とは別物に変化しては存在意義を失いますので、そこの判断を誤らないように気をつけなくてはなりません。
神々と人々の絆を固く結び、神と人が身近にある日常生活を守り存続させることが重要です。
もしも神と人の絆が絶えてしまったら、その時点で日本の存在する価値が失われて、国も失われて存在そのものが忘れ去られて、神と人との絆を結ぶことに意義を見いだせなくなって、どうでもいい無価値な存在に成り下がるでしょう。
日本を守り抜くには、まず日本国民が日本という国を良く理解し、日本が存続することの重要性をしっかり認識するところから始めなくてはなりません。
日本国民は、何故日本には天皇がいるのか、天皇がどの様な役割を担っているのかを知り、天皇に対する理解を深めなくてはなりません。
現状では天皇に対する認識が曖昧であり、天皇の重要性を実態よりも軽く捉える傾向にあります。
天皇はただの象徴では無く、日本を日本たらしめる中心となる存在です。
そこを理解した上で、周辺国にどの様に対処する必要があるのかを考えるので無ければ、現在の様に混迷した時期が続くことになるでしょう。
周辺国に付け入られたり侮られないように、賢く立ち回る必要はありますが、和を乱す行為への恐れから神経質になりすぎて黙ったり遠慮していては、日本を守り抜くことはできません。
周辺国の甘言に惑わされず、神と人との絆が結ばれた日常を守り抜くことにより、「勝利の上に勝利を重ねる」結果に繋がるでしょう。
(第二の封印を開いた)現時点では、まだ決着がついていません。





■ 小羊が巻物の第二の封印を開く

黙示録の第六章第三節~四節で、小羊が巻物の第二の封印を開くと、火のように赤い別の馬が現れました。
その馬に乗っている者は、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられます。
そしてその者には大きな剣が与えられます。
既に以前の黙示録解読関連の記事で述べているように、神の巻物の第二の封印とは『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』であり、『銀の紐』掲載記事【『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が完全開放されました】にて、第二の封印であるバチカンの拠点が開いたことをお知らせしました。
赤い馬に乗っている者が、地上から平和を奪い取る力を与えられるとあるように、巻物の第一の封印を開いて、白い馬に乗っている者が勝利の上に勝利を重ねるために出て行った事により、一度目の神の裁きを終えてから二度目の神の裁きが始まるまでの期間は、それ以前と比べてより多くの人が平和と繁栄を謳歌した時期と言えるでしょう。
しかし、その繁栄の果実を味わったのは一部の地域に住む人々に過ぎず、平和と繁栄の時代にあっても紛争や貧困と隣り合わせで、常に身の危険を感じながら過ごしてきた人もいました。
白い馬に乗っている者の働きかけが思う様に運んでいないので、全ての人々が分け合えるほどの繁栄の果実が適切に分配されずに、一部の人々によって独占されているので、場所によって平和と繁栄の不均衡が生じてしまいました。
また、元々は白い馬に乗っている者が人間に働きかけた結果であり、平和と繁栄の果実を生み出す元となった価値観である、人権意識や人道主義といった価値観も、繁栄の果実を独占する者が本来の意味合いを歪めて、自らの不正行為を隠蔽して公正を装う隠れ蓑に変えてしまいました。
第一の封印を開いたことにより、せっかく参考となる理想像が示されたのですが、その意味を歪めて悪用する人が多くを占めるので、今度は悪用する人々が飾る小綺麗な仮面を剥ぎ取って、その裏に隠された醜い本質を直視する中から、反面教師としての学びを得るための働きかけとなります。
ですから、第二の封印を開くことにより、見た目を綺麗に装うために吐いて来た嘘を暴いて、その奥に隠していた本性を互いに誹謗して争うことになるでしょう。
既にその兆候は現れていますが、現代を生きる私たちに求められるのは、そんな不安定な状態を招いたのは自身の不徳の致すところであると直視した上で、目の前にある問題を解決するために全力を尽くすことです。

以上の、人間視点から見た巻物の第二の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、第二の封印を開く時に、バチカンの拠点が開きます。
これは今実際に起きていることです。
バチカンの拠点が管轄する地域(=欧州)の人々が、悪魔の価値観に酔い痴れて行ってきた非道の数々が争いを招いて、自分の身を滅ぼすことになるでしょう。
自分たちのこれまでの行いがどれほど身勝手なものだったのか、その身に降りかかる災いを通じて自覚しなくてはなりません。
どれ程多くの命を虫けら同様に扱って、踏みにじってきたのかを自分の身をもって体験するのです。
彼らには何処にも逃げ場はありません。
逃れることは許されません。
それは自分たちが今まで他の者に与え続けてきたものに他なりません。
そのことを自覚して態度を改めなさい。
今までの行いを全て精算し尽くすまで、終わりの無い苦痛が続くでしょう。





■ 小羊が巻物の第三の封印を開く

黙示録第六章第五節~六節で、小羊が巻物の第三の封印を開くと、黒い馬が現れました。
その馬に乗っている者は、手に秤を持っています。
そして小麦や大麦の価値を定め、オリーブ油とぶどう酒が無くならないように注意を呼びかけています。
既に黙示録解読関連の記事で度々述べているように、巻物の第三の封印とは、「霊界と地上界を繋ぐ米国の拠点」を指すと解釈しています。
黒い馬に乗っている者が、手に秤を持っているのは何故でしょうか。
第二の封印が開いたことにより、表面を綺麗に飾っていた者の醜い本性が露呈し、お互いに相手の嘘を咎めて争うため、国家間や国内での対立が激しくなり、国際紛争や内戦が各地で勃発します。
行き過ぎたグローバリズムの揺り戻しとして、価値観が異なる者同士の対立と紛争が始まり、新たな境界線を引き直した上でお互いに一定の距離を置くことにより、一応の収束を迎えることになるでしょう。
紛争の結果多くの血が流れ、国土が荒廃して食料生産が滞り、各地で食糧不足となるでしょう。
ですから、黒い馬に乗った者が手に秤を持ち、食料の重さを厳密に量っているのです。
ここで人間は、かつては豊富に収穫されていたのに、生活に必要な分量の食糧をより多くの人々に対して適切に分配できなかった経験を踏まえて、食糧生産が減少する時代をどの様に生き抜くかが問われてきます。
しかも、限られた食糧を分け合う相手が、かつて互いに血を流して争った者同士です。
その結果として一応和解すると予想しますが、その様な相手と、只でさえ貴重な食糧を分け合わなくては、お互いの命を長らえることが適いません。
もし限りある食糧を分け合えなければ、今日を生きるために更に多くの血が流れ、更に多くの土地が荒廃することになり、元々限りある食糧が更に目減りする結果となるでしょう。

以上の、人間視点から見た巻物の第三の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、黒い馬に乗った者が持つ秤は公正の証となります。
世界にあるものは、行いに応じて公正に分配されなくてはなりません。
これまで不当に多くを独占してきた者は、その非道な振る舞いのために厳正な処遇を受けることになります。
これは霊界と繋がる北米にある拠点が管轄する地域(=北米・南米・豪州)での出来事となります。
これまで我が世の春を謳歌してきた拝金主義者の末路です。
食糧が乏しくなり、金が幾らあっても買えないようになって行きます。
金は万能ではありません。
金は適切に使用すると本来の価値を発揮しますが、不適切な用い方をすると、自分に牙を剥く厄介な存在であることを思い知るでしょう。
金そのものに意志はありませんが、金を用いる人間の意志でどのようにでも変化します。
金に溺れ、金に支配された者の末路です。
全てを支配したつもりでも、実は支配されていたことを思い知ることになるでしょう。
自分たちが神では無いという現実を目の当たりにします。
自分の愚かさを潔く認めなさい。
これが本格化するのはもう少し未来の話ですが、その兆候は現在においても見られるようになるでしょう。





■ 小羊が巻物の第四の封印を開く

黙示録の第六章第七節~八節で、小羊は巻物の第四の封印を開きます。
すると青い馬が現れました。
その馬に乗っている者は「死」といって、この者には陰府(=地獄)が従っていました。
彼らは地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死によって、それから地上の野獣によって人を滅ぼす権威が与えられました。
既に黙示録解読関連の記事で度々述べているように、巻物の第四の封印とは、「霊界と地上界を繋ぐチベットの拠点」を指すと解釈しています。
青い馬に乗っている者は「死」といって、この者に陰府が従っているのですから、この者はチベットを中心とした地上の四分の一の地域で、剣がもたらす戦争や飢饉による死をもたらし、また地上の野獣を使役して人を滅ぼす権威を持っています。
地上の野獣とは、欧州にあって赤い竜を模した第一の獣や、米大陸にあって小羊を模した第二の獣と同じように、地上で悪魔の代理人として活動する獣が新たに登場するのでしょう。
小羊が巻物の第三の封印を開いた時に、人々は荒廃した大地で食糧生産が減少する中、如何にして限りある食糧を適切に分け合うかが問われましたが、少なくともチベットを中心とする地域では食糧を上手に分配できなかったようです。
だからこそ僅かな食糧の独占を目論む者たちが剣を手に紛争を繰り返し、紛争の連鎖が更に土壌の荒廃を加速して食糧生産を滞らせて、飢饉の発生を促進します。
人々がそのような愚かな行動を選択するように、悪魔の代理人である野獣が民意を誘導する役割を果たすので、人々は後戻りのできない泥沼の深みへ足を取られて沈んでゆくのです。
こうして人々がお互いを潰しあって自滅への道を歩むことにより、多くの人が死と陰府に絡め取られてしまいます。
その中でも、自らの愚かさを直視して行いを改める僅かな者のみが、この厳しい時代を乗り越えるチャンスを手にするのではないでしょうか。

以上の、人間視点から見た巻物の第四の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、巻物の第四の封印が開くときに、チベットの拠点が開きます。
これはチベットの拠点が管轄する地域(日本を除くアジア全域)で起こる出来事です。
ここにいる生物たちは、自らの生存をかけて争い、奪い合います。
物質界の本質が剥き出しになって、人間を襲うでしょう。
この地域に暮らす人に必要な学びは、物質界の本質を肌で感じ取り、見極めることです。
人間の行動次第で、多くの恩恵や安心を得ることも可能ですが、誤った判断に基づいて怠惰な生活を送り続けると、世界そのものが人間に対して牙を剥くことになります。
常に思慮深く、賢くあるように努めなくてはなりません。
それが出来なければ、人々の住む土地は枯れて全てを失うことになるでしょう。
チベットの拠点が開くまでにはまだ多くの時間がかかりますが、それまでの間に学べることが沢山あります。
その時が訪れるまでの長い間に、一体人間たちがどの様な学びを得られるのか、神様は具に観察しているのです。
その時までに必要な学びを得られなかった者には容赦なく死が訪れて、申し開きをする機会も許されないでしょう。





■ 小羊が巻物の第五の封印を開く

黙示録の第六章第九節~十一節で、小羊は第五の封印を開きます。
すると、神の言葉と自分たちが立てた証しの為に殺された人々の魂を、ヨハネが玉座の前にある祭壇の下で見ます。
彼らは主に対して「いつまで地上に住む者への裁きを行わないで、私たちの血を流した復讐をしないのですか」と訴えます。
そこで彼らに白い衣が与えられて、かつて彼らが殺されたのと同じように、今地上で殺されようとしている仲間の僕達の数が満ちるまで、しばらく待つように告げられます。
ここで地上の様子は語られていませんが、巻物の第四の封印を開いた時には地域を限定して起こった混乱が、さらに地域を拡大して継続しているようです。
既に黙示録解読関連の記事で度々述べているように、巻物の第五の封印とは、「霊界と地上界を繋ぐエルサレムの拠点」を指すと解釈していますので、少なくともエルサレムを中心とした一帯が、極めて深刻な状態に置かれているのでしょう。
その厳しい環境下で、かつてのイエスに見習って、神の言葉と自分たちが立てた証しの為に「異端の者」として殺された者が、数多く存在しました。
しかし、地上で「異端の者」として処刑された者たちは、神の御許に引き上げられて白い衣を与えられました。
彼らは主に対して「神の僕としての務めに殉じた私たちを殺めた者たちへ、いつになったら神の裁きを下すのですか」と急かしますが、主は逆に「あなたたちと同じように、神の僕としての務めを果たした為に殺されてしまう人の数が満ちるまで、しばらく待つように」と諭します。
地上では「神の僕としての務めを果たす」という世迷言を言いふらす厄介者を粛清したつもりですが、実はそうして粛清された者が死後に白い衣を与えられたのです。
そうして白い衣を得られる者がまだ地上に残っているので、主は白い衣を与えられた者が一定の数に達するまで待つように促しました。
いましばらくの間、地上の混乱は止まるところを知りません。

以上の、人間視点から見た巻物の第五の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、巻物の第五の封印が開く時に、エルサレムの拠点が開きます。
ここには既に、イエスと同じように自分の身をもって証しとなり、神の言葉を成就するために努めた者が大勢います。
ここに辿り着くまでにそれだけ多くの時間が必要とされて、その間に多くの者が神の御許に辿り着いたことの証です。
神の知恵を地上から完全に拭い去ることは出来ません。
どんな迫害を受けても、知る者達を知らない者達が欺くことは出来ないのです。
既に神の言葉の証を終えた者達にとっては、物質界において十分に神の言葉が証しされたと考えたようです。
そこで神に対して「地に住む者に私たちの血の復讐はなさらないのですか」と問いかけています。
彼らから見ると、それだけ多くの時間が費やされてきました。
ちなみに「血の復讐」という表現は適切ではありません。
悪魔に与する者達に復讐するのが目的ではなくて、神の知恵が正しく機能し、それを犯すことは誰にもできないことを証明するのが目的なのです。
この時点ではまだ証しを立てる者が残されているので、天にいる証しを終えた者達の願いは聞き届けられません。
まだ十分に時が満ちておらず、悪魔が言い逃れできる猶予を与えてしまうことになるので、完全に外堀を固めてからすべてに決着がつけられることを示しています。
なお、この拠点に対応した詳しい状況説明は、旧約聖書を参照した方がよいでしょう。





■ 小羊が巻物の第六の封印を開く

黙示録の第六章第十二節~十七節で、小羊が巻物の第六の封印を開きます。
すると大地震が起きて、太陽が“毛の荒い布地のように”暗くなって、月は血の色に染まります。
次に「イチジクの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされる」様に、天の星が地に落ちてきます。
天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も元の場所から移ってしまう程の天変地異が襲いかかります。
そんな天変地異を目の前にして、地上の王から奴隷までのあらゆる立場の人々が、洞穴や山の岩間に隠れます。
彼らは山と岩に向かって、「主と小羊の怒りから私たちを守ってくれ」と乞い願いますが、主と小羊の怒りの大いなる日が来たのですから、誰がそれに耐えられるのでしょうか。
既に黙示録解読関連の記事で度々述べているように、巻物の第六の封印とは、「霊界と地上界を繋ぐスーダンの拠点」を指すと解釈していますので、これらの天変地異はスーダンを中心としたアフリカ大陸を襲うことになるのでしょう。
しかし、その影響がどの程度の広範囲に及ぶのか、もしくは地球全土を覆ってしまうのかは、現時点では読み解けません。
太陽と月の描写について、これが大規模な大気汚染を指しているのでしたら、全地球的な何らかの影響は避けられないでしょう。
それは天の星が落ちる描写についても、山や島の位置すら変わってしまう地殻変動についても同じことが言えます。
そんな大規模自然災害に直面して、人は王も奴隷も無力な存在にすぎず、自らの誤った行いを悔い改めるのではなくて、洞窟や山の岩間に隠れて、目の前の天変地異をやり過ごすくらいしか思いつきませんでした。

以上の、人間視点から見た巻物の第六の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、巻物の第六の封印を開く時に、アフリカにある拠点が開きます。
すると大地が大きく揺さぶられて、太陽の光が届かない程に大気が異物に厚く覆われて、月が血に見えるほど赤い光が反射しています。
そして隕石の落下に伴う災害に遭います。
「山も島も、皆その場所から移された」とあるように、隕石の落下地点を中心とした広範囲で大地が消失してしまいます。
太陽の光も届かぬほどの影響があることを考えれば、当然地上から空は見えなくなり、天が消え去ったように見えるでしょう。
被害に遭った土地に暮らす者は、どの様な立場にある者も皆、災害から逃れるために安全な場所を求めて避難しますが、いざという時の備えを怠っていたために逃げ場がありません。
たとえ準備を整えていたとしても、人間の知恵が通用しないほどの惨状を目の当たりにして、恐れおののくことになります。
この土地に暮らす者が学ばなければならないのは、誰でも当たり前のように受けてきた自然からの恩恵は、予め神が用意していたことをしっかり認識しなくてはなりません。
それは誰か特定の者の為ではなく、全ての者の為に存在していたことを理解しなくてはなりません。
その事を自覚するための災害といえるでしょう。
つまり、今までは特定の者のみが神の恵みを独占して、徒に浪費を繰り返してきたことになります。
その為に、それ以外の者達が神の恩恵に与ることが難しい社会を、人間が自ら作り上げてしまいました。
神の価値観を大切に守って暮らしていれば、必ず必要な物は揃うようになっているのですが、悪魔の価値観に染められた者にはそのことが理解できません。
だからこそあらゆる物を独占して、手元にある物を手放したがらないのです。
神は独占している者達の手から全てを奪い取り、本来ある姿へと戻すために行動することになります。
この地において、悪魔の価値観に染まった人間が身勝手に振る舞える時間が終わり、神と小羊による統治へ向けた働きかけが始まったのです。





■ 小羊が巻物の第一~第六の封印を開くまでのまとめ

今回の記事はご覧のように、小羊が巻物の第一~第六の封印を開いてゆく所を見てきましたが、以前の黙示録解読の際にもある程度の説明を尽くしていましたので、神の視点からみた追記の説明の中には、以前の解読の内容と重なる部分も見られました。
その中でも特に強調しておきたいのは、日本の拠点について述べた第一の封印の項で、日本が抱える問題と解決に向けたヒント、そのような状態に至った背景など、『銀の紐』掲載中の関連記事よりも更に踏み込んだ内容に言及しています。
毎年年初の展望記事や、『神の一手』関連記事から『収穫の時が来た』へ至る直近の国内情勢の変化を、黙示録ではどの辺の内容と関わりがあるかを推測しながら追いかけてゆくと、人間の視点から見た日々の出来事と、神の視点から見た黙示録の関連性が見えてきます。
その様にして、少しでも黙示録に示された神の言葉の意味合いを読み取ることによって、日常生活の中で神の知恵を生かし、神の計画をうまく活用できるように振る舞うことも可能となるでしょう。

今回の記事では、第六の封印を開くところについては冒頭部分の解説に留めましたので、続きは次回への持ち越しとなります。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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2016年9月9日金曜日

[黙示録再解読]:ヨハネが垣間見た神の玉座

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■ ヨハネが天の開かれた門を通る

以前の黙示録解読の際には、四章と五章については殆ど言及しておりませんでしたが、この度は霊界の住人に詳しく解説して頂きましたので、黙示録の文面に沿って細かく見ていきましょう。

黙示録の第四章第一節に、その後(アジア州にある七つの教会の天使に宛てて手紙を出すよう、ヨハネがイエスの指示を受けた後)、ヨハネが見ていると、開かれた門が天にありました。
そこに、ラッパが響くような声があって、ヨハネに語りかけます。
「ここへ上ってこい。この後必ず起こることをあなたに示そう。」、とあります。

これはいわゆる幽体離脱と呼ばれる状態を表現していて、肉体から離れたヨハネの霊体が霊界を訪ねる様子を示しているそうです。
『銀の紐』でも度々『霊界と地上界を繋ぐ拠点』という用語を使用していますが、ここでヨハネは、霊界が地上の真上に広がっていて、霊界と地上界は明確な境界線で区切られていると理解したのでしょう。(※注)
ここで「開かれた門が天にある」のは、霊界と地上界を隔てる境界の門であり、肉体から離脱したヨハネはイエス・キリストの黙示を人々に伝える役目を帯びていたので、その目的の一環として霊界を訪ねる許可を得ました。
そこで霊界と地上界を隔てる境界の門はヨハネの前で開いたのですが、誰もがいつでもこの門を通れるわけではありません。
ヨハネも霊界で目的を遂げたら再び地上に戻って、自分がそこで見聞きした出来事を逐一記録に残さなくてはなりませんので、その目的を果たすまでヨハネは地上に留まることになります。

※注:
霊界の住人の補足によると、霊の世界と物質の世界は重なり合っているけれども、存在する次元が異なるという表現をしています。
霊の世界は上位次元で、物質の世界は下位次元であり、上位次元から下位次元に対しての干渉は可能ですが、下位次元から上位次元への干渉は出来ないので、物質である人間の肉体では霊を見たり触れあうことが出来ません。
但し、人間は霊と物質が結合した存在ですので、人間のままでも霊本来の能力を活性化できれば、ヨハネのように幽体離脱で霊界を訪ねたり、人間のままで様々な霊の存在を認識することも可能となります。
そして、イエスが派遣した天使を認識できるヨハネは霊能力者であり、ヨハネのように霊本来の能力が活性化した人間は、「神の働きかけは天から地上に向けて行われる」と認識していることになります。





■ 天の玉座の様子

黙示録の第四章第二節~三節には、ヨハネが天の門を抜けると、たちまち“霊”に満たされました。
天には玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方が居られました。
その方は碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いています、とあります。

天の門を抜けた先は霊界であるだけに、ヨハネは「たちまち霊に満たされ」ました。
天の霊界で一際目についたのが天の玉座でしたので、ヨハネは一番最初に注目しています。
玉座に座っている方はイエスにとっての主であり、ヨハネにとっての主である神です。
ヨハネはその方を「碧玉や赤めのうのようだ」と述べていますが、碧玉とは微細な石英の結晶が集まって出来た鉱物であり、石英に混ざり込んだ不純物の種類によって色合いや模様が変わります。
めのうも材質は似通っていますが、複数の色が層状に重なっています。
赤めのうですので、ヨハネが見た神は「赤みを帯びた層状の濃淡で覆われており、物体のように向こう側が透けていない状態」ということでしょうか。
玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていたので、緑系の濃淡を帯びた光を発していたと思われます。

黙示録の第四章第四節には、玉座の周りには二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていました、とあります。

次にヨハネが注目したのは、玉座の周りにある二十四の座でした。
二十四人の長老は、勝利を得た者が着る白い衣を着ていますので、彼らは人間としての経験を積んだことがあり、そこで勝利を得て神の御許へ引き上げられたのでしょう。
長老なのですから、イエスが人間として神の言葉を証しする以前に勝利を得て、イエスよりも遥かに昔から神の御許で活動していたようです。
金の冠とは、人々を神の御許に導く為に人々を束ねる者の印であり、黙示録の場合で言うと「神の言葉をイエス・キリストの名によってヨハネに伝えた」ので、長老達はイエスと同じ立場で諸国の人々と関わっていたことになります。

黙示録の第四章第五節には、玉座から稲妻や様々な音、そして雷が起こりました。
また、玉座の前に七つのともし火が燃えていたのですが、これが神の七つの霊です、とあります。

ここで発せられた様々な音とは、黙示録に綴られている物語の中で人間が経験する物事と密接な関わりがあって、それは必ず成就されるのですが、ヨハネは一足先にそれを知ったことになります。
もちろん、ここで成就される物事は七つの霊を通じて行われることであり、七つの霊とはイエスが神から受け取った巻物にある七つの封印を管理する霊なのですから、封印を開くことと関係があるのでしょう。

黙示録の第四章第六節~八節には、玉座の前が水晶に似たガラスの海のようになっていました。
その玉座の中央と周りに四つの生き物がいて、前と後ろの一面に目がありました。
第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようでした。
この四つの生き物には、それぞれに六つの翼があって、その周りにも内側にも一面に目がついていました、とあります。

以前の黙示録解読でも言及しましたが、玉座の前に広がっている「水晶に似たガラスの海」とは、神の玉座がある天の一角から見下ろした地球の姿を表しています。
玉座の辺りから見ると、視界のかなり広範囲に地上が広がっている表現(ガラスの海)ですので、現代ならISSから地上を見下ろした光景に近いのではないでしょうか。
また、四つの生き物とは、特定の目的を持つ四つの集団を象徴的に表していて、四つの生き物の特徴についてよく考えると、それぞれの集団が担っている役割が分かるようです。
四つの生き物に沢山の目がついているのは、その生き物で表される集団を構成する者たちの目であり、例えると、四つのテレビカメラで撮影した映像を、テレビ中継を通して多くの人が同時に見ている様子に近いようです。
四つの生き物の役割は異なるのですが、生き物たちは共通の目的を持っていて、集団毎に役割分担をしているようです。
四つの生き物についている六つの翼は、イエスが神から受け取った巻物の第一~第六の封印と対応していて、それぞれの封印が開く時に、予め生き物たちに与えられた役割を担うことになります。





■ 四つの生き物の感謝と二十四人の長老の礼拝


黙示録の第四章第八節~九節には、その生き物たちは、昼も夜も絶え間なく言い続けました。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」
玉座に座っておられて、代々限りなく生きて居られる方に、四つの生き物が栄光と誉れをたたえて感謝を捧げました、とあります。

四つの生き物に例えられる集団は皆、神の言葉が成就される様子を観察し、自らの経験に基づいて霊的真理の妙に感嘆し感心しており、なおかつ未知の領域が残されている深遠さをも自覚しているので、自然と神の栄光と誉れをたたえずにはいられないのでしょう。

黙示録の第四章第十節~十一節には、四つの生き物に続いて、二十四人の長老が玉座について居られる方の前にひれ伏して、代々限りなく生きて居られる方に礼拝して、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言いました。
「主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。
あなたは万物を作られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」、とあります。

ここで二十四人の長老が、玉座についておられる方=神にひれ伏し、冠を王座の前に投げ出したのには理由があります。
一つ目は、その冠は長老の目の前にいる神から与えられたものであり、人間が勝利を得る者となるために霊界から人間を導き束ねる役目を担っている証しとしての冠なので、神の前で冠は特定の役目を担っている者という以外に何の意味もないからです。
二つ目は、ここで長老達は冠を必要とする役目を終えることになったので、神に与えられた冠を返却することとなりました。
では、何故長老達が冠を返却することになったかというと、イエスが長老達の役目を引き継ぐことになったからなのですが、その辺りの経緯は黙示録の第十二章で断片的に言及しています。
赤い竜であるサタンが天から地上へ堕とされて、サタンが人間に対して干渉し始めたことによって、長老達から人間に対する働きかけが上手く機能しなくなってしまったため、長老達からイエスに役割のバトンタッチを行いました。
その辺りの事情は記事【『ヨハネの黙示録』では語られなかったこと】で取り上げています。
長老達が神の前で礼拝するのも、神の御許で神の言葉の成就に関わりながら観察し、神の御業と霊的真理の深遠さ、膨大さに感嘆し日々学びながら過ごしているので、自然と神を讃えずにはいられなくなってしまうのです。
日本人であれば、自然災害の被災地を慰問された天皇陛下にお言葉をかけられた被災者の心情に例えると、特にその様な機会に立ち会われた方は想像しやすいのではないでしょうか。





■ 神の巻物と七つの封印

黙示録の第五章第一節~第四節には、玉座に座って居られる方の右手に巻物がありました。
巻物の表にも裏に文字が書いてあり、七つの封印で封じられていました。
そこで一人の力強い天使が大声で告げました。
「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」
しかし天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて見ることの出来る者は誰もいませんでした。
この巻物を開いて見るのにふさわしい者が誰も見当たらなかったので、ヨハネは激しく泣いていました、とあります。

玉座について居られる方=神が右手に巻物を持っていましたが、この巻物に書かれている内容が黙示録の原典であり、神が物質界に働きかける際の細かい計画が記されているのでしょう。
巻物の表裏に文字が書いてあるので、表に出す計画(黙示録を通じて人間に明かす部分)と裏の計画(人間には明かされずに神と他の霊達のみでこっそり進める部分)に分けているようです。
更に巻物を七つの封印で封じてあるので、特定の条件を満たして封印を解かないと、この計画は実行されません。
そこで力強い天使は、神の巻物の封印を解いて開く適任者を探して呼びかけますが、その時はどこにも適任者がいません。
今まで、神の言葉を成就するために人間を導き束ねてきた長老達が、神に与えられた冠を外すことによってその役割を返上したため、神の巻物の計画に沿って人間に働きかける者がいなくなってしまったからです。
力強い天使も力尽くで巻物の封印を解いて開けないのですから、他に巻物の封印を解く条件があるのです。
そこでヨハネは泣いてしまうのですが、神の巻物の封印を解く者がいないことの意味を知っていたからでしょう。
いつ何処でそれを知ったかというと、ヨハネが人間として生まれる前に、神の巻物に何が書かれているかを予め知っていて、その巻物の封印を開くために特定の役割を担って生まれたのではないでしょうか。
イエスは神の言葉を証しする為に人間として生まれましたが、役割は違えどヨハネにも神の言葉を成就させる為に欠かせない役割がありました。
だからこそ、現代を生きる私たちは黙示録を目にすることが出来るのですから。
そんなヨハネの役割も、巻物の封印を開く者がいなくては無意味になってしまいます。





■ 長老達の後を継ぐ者

黙示録の第五章第五節~七節には、長老の一人がヨハネに言いました。
「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」
そしてヨハネは、玉座と四つの生き物の間、長老達の間に、屠られたような小羊が立っているのを見ました。
小羊には七つの角と七つの目がありました。
この七つの目は、全地に使わされている神の七つの霊です。
小羊は進み出て、玉座に座って居られる方の右手から、巻物を受け取りました、とあります。

屠られた様な小羊とは、イエスが神の言葉を証しした為に処刑された事績を指しますが、「ユダ族から出た獅子」と「ダビデのひこばえ」とはどういうことでしょうか。
マタイによる福音書の冒頭に、イエスがアブラハムの子孫であり、イスラエル王国を統治したダビデ王の末裔であるとして、系図を記しています。
かつてダビデ王が統治した国は失われ、イスラエルの民による国家は大木を切り倒すように途絶えてしまって、辛うじて往年のダビデ王の事績が歴史という切り株の形で残るのみとなりました。
しかし後にダビデ王の末裔であるイエスが、「ユダヤ人の王」を名乗って宣教活動を行いますので、ダビデの切株に芽吹いたひこばえなのです。
実際に聖書の中には、イエスがダビデの家系から現れた救い主であることを示す記述があちこちに確認できます。
例えばエレミヤ書の第二十三章第五節~六節には、ダビデの為に新しい若枝を起こすとあり、その者は「主は我らの救い」と呼ばれるとあります。
そしてマタイによる福音書第二章第五節~六節にあるように、救い主がベツレヘムで誕生することが、ミカ書第五章で告げられていました。
ルカによる福音書第二章には、皇帝から住民登録をせよと勅令が出たとして、ヨセフがダビデの家系に属しているので、許嫁のマリアを伴って、住まいのあるガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムへ向かった時に、マリアがイエスを出産したことが記されています。
とはいえ、イエスが古の預言者によって示された救い主ではないと見なしている人もいて、ユダヤ教徒は預言者が示した救い主は今だに現れていないという立場です。
イエスが「ユダ族から出た獅子」であるのは、ダビデ王の後に分裂したイスラエルの二王国のうち、民族の一体性を維持して聖書を次代に伝えたのはユダ王国の末裔だったので、度々律法について言及しているイエスはユダヤ教徒=ユダ族の末裔であり、「ユダ族から出た」者といえます。
聖書で獅子という言葉は、強い者や獰猛な者、人間に危害を加える者に対する表現として用いられていますので、「ユダ族から出た獅子」とは、聖書の神を信仰するユダヤ教徒でありながら、当時のユダヤ教の権威に挑戦する危険な存在として台頭した、正にユダ族にとっての獅子に相応しい存在だからでしょう。
イエスがユダ族に取って獅子なのは、ユダ族の信仰が聖書に記される神の言葉から遠く離れていたので、イエスは「原典である神の言葉に戻れ」と訴えただけなのですが、当時のファリサイ人や律法学者にとっては、自分たちの存在を危ぶませる脅威と映ったのです。
更にもうひとつ付け加えておきたいのは、サムエル記上第十六章第十三節で、サムエルによってダビデに油が注がれた日から、主の霊がダビデに降るようになったように、マタイによる福音書第三章第十六節で、イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けると、天がイエスに向かって開き、神の霊がイエスの元に下ってきました。
ダビデが主の霊と共にあったように、イエスは神の霊と共にあったので、神様と特別な繋がり(神様にとって特別な役割)を持つ人間という意味で、イエスはダビデの後継者に当たると言えるのです。
因みに、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に、天がイエスに向かって開きますが、これは記事の冒頭で僕ヨハネが通った天の門を指しています。

ちょっと長くなりましたが、引き続き小羊についての記述を見ていきましょう。
小羊には七つの角と七つの目がありますが、これは黙示録第十二章に登場する赤い竜である悪魔と対比した表現となっています。
七つの目は全地に遣わされている神の七つの霊とあり、これは神の玉座の前に燃えている七つの灯火を指します。
神の七つの霊は、神の右手にある巻物にある七つの封印の錠であり、『地上と霊界を繋ぐ拠点』を管理するものであることは既に述べましたので、その七つの霊が担う役割を屠られたような小羊の働きとして描いています。
小羊は勝利を得たことにより、神の玉座の前に進み出ることを許されました。
今までの黙示録関連記事でも繰り返し述べてきたように、勝利を得る者は皆神の御許に引き上げられることになりますので、その意味では小羊だけが特別な存在ではないと言うことを改めて強調しておきましょう。
そして神の御許にある巻物を受け取ったのですが、ここで小羊は巻物の封印を開いて、巻物に記された神の言葉を成就させる大任を委ねられたことになります。





■ 四つの生き物と長老達と天使たちの礼拝

黙示録の第五章第八節~十節には、小羊が神の右手から巻物を受け取った時、四つの生き物と二十四人の長老は、竪琴と香のいっぱい入った金の鉢を各々手に持って、小羊の前にひれ伏しました。
香とは聖なる者たちの祈りです。
そして彼らは新しい歌を歌いました。
「あなたは巻物を受け取り、その封印を開くのに相応しい方です。
あなたは屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らを私たちの神に仕える王、また司祭となさったからです。
彼らは地上を統治します。」、とあります。

四つの生き物と長老が小羊にひれ伏した時、手に持っていた竪琴と金の鉢とは何でしょうか。
黙示録で竪琴について述べているのはこちらです。
第五章第八節、第十四章第二節、第十五章第二節、第十八章第二十二節の四カ所となります。
そのうちの第十四章と第十五章については、以前の黙示録解読で解説しました。
竪琴とは神の竪琴であり、竪琴の音を鳴らすようにして大水や雷などの自然現象をコントロールするのです。
また、黙示録で金の鉢について述べているのはこちらです。
第五章第八節、第十五章第七節、第十六章第一節~四節、八節、十節、十二節、十七節、第十七章第一節、第二十一章第九節の十二カ所となります。
そのうちの第十五章第七節では、四つの生き物の一つが「神の怒り」が盛られた七つの金の鉢を、七人の天使に渡します。
そして第十六章、第十七章で七人の天使は『神の裁き』として、次々と鉢の中身を地上に注ぎます。
この様に、金の鉢は四つの生き物と長老が地上に働きかける道具であり、七人の天使は四つの生き物の名代として、地上に『神の裁き』を下します。
しかし第五章第八節では金の鉢に香が一杯入っており、香とは聖なる者たちの祈りなので、『神の裁き』の時期を除くと、四つの生き物や長老は地上に向けて祈りの働きかけを行っていることになります。
ところで、彼らが歌う新しい歌は何を歌っているのでしょうか。
「小羊であるイエスは神の巻物を受け取って、七つの封印を開くのに相応しい方です。
何故相応しいかというと、あなたは神の言葉を証しした為に屠られて、死後に神の御許に引き上げられたことにより、人が神の御許へ至る筋道を示しました。
また、人でありながら神の御許へ引き上げられたことにより、イエスは地上の様々な種族・言葉の違う民・あらゆる民族と国民にとって特別な役割を担う資格を得ました。
(今までは長老や四つの生き物が分担して担っていた)神と諸国の民の間を仲立ちする役割を、小羊であるイエスが一手に引き受けることになったのです。
(それ故に長老と四つの獣は小羊の前にひれ伏して、今後は小羊の指示を受けて活動することになったので、)小羊であるイエスは、地上の人々が神の御許に引き上げられる道を辿れるように導き束ねる者となりました。」
因みに、「彼らを私たちの神に仕える王、また司祭となさったからです」の彼らとは、『アジア州にある七つの教会の天使』であり、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の覡役の者であり、小羊は霊界から、七つの教会の天使は地上から、神と諸国の人々の間を仲立ちする者となります。
それが地上を統治することの意味です。





■ 天使たちと天と地と地の下と海にいるあらゆる者たちの声

黙示録の第五章第十一節~十四節には、ヨハネが玉座と生き物と長老たちの周りに、多くの天使の声を聞きました。
天使たちの数は数万の数万倍、千の数千倍でした。
天使たちは大声でこの様に言いました。
「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるに相応しい方です。」
またヨハネは、天と地と地の下と海にいる全ての被造物と、そこにいるあらゆる者がこういうのを聞きました。
「玉座に座って居られる方と小羊に、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、代々限りなくありますように。」
四つの生き物は「アーメン。」と言い、長老達はひれ伏して礼拝しました、とあります。

今まで四つの生き物や長老達がとりまとめていた、人間に対する働きかけ(その象徴として冠をかぶっていた)は、多くの天使たちの協力によって成り立っていました。
そして四つの生き物と長老達が取りまとめの座を小羊に譲り、自らひれ伏して小羊の指揮下で活動する意志を示した様子を見て、天使たちもそれに賛同し、自分たちの活動を取りまとめる新たなリーダーの登場を歓迎しました。
天使たちは、今までの自分たちのリーダーにさえ為し得なかった、神の巻物の封印を開く資格を得た者の登場に喜び、勇み、神の言葉を成就させる新たな段階に入ったことを確認して、心がけを新たにしました。
ここで玉座の周りにいる天使たちばかりでなく、天と地と地の下と海にいる全ての被造物と、そこにいるあらゆる者が神と小羊を賞賛します。
被造物とは物質であり、天の被造物とは天上(目安として地球の重力圏内)に浮遊している物質、地の被造物とは地上にある生物・非生物を含む全ての物質、地の下にある被造物とは地下にある生物・非生物を含む全ての物質、海にいる被造物とは海上と海中にある生物・非生物を含む全ての物質を指します。
そこにいるあらゆる者とは、地球自体の環境や物理法則などを成り立たせるために、地上や地下や海で活動している霊的な存在や、人間以外の様々な生物の活動や成長に働きかける霊的な存在などを指します。
地球は人間にとってのみの学び舎ではなく、人間を含むあらゆる生物に宿る霊にとっての学び舎であり、また地球自体もその内に霊を宿す存在であり、成長に伴って地上の環境が変化を余儀なくされるようですので、そういったあらゆる活動に携わる霊的な存在も、小羊が神の巻物を受け取ったことにより、神の言葉を成就させる活動が新たな段階に入ったことを賞賛し、神と小羊を讃えました。
黙示録は主に人間に対する神の働きかけの計画書ですが、人間が地上から地下に、海に、天にと活動範囲を広げることにより、それらの各地で活動するあらゆる者たちにも様々な影響が及びますので、人間と無関係とは言えないのです。
ここで改めて四つの生き物が「アーメン(そのとおり!)。」と言い、長老達がひれ伏して礼拝することによって、天では神と小羊を中心として、あらゆる事柄を推し進めてゆく方針を確認しました。





■ 小羊が神の巻物を受け取るまでのまとめ

今回取り上げた黙示録の第四章~五章の内容は、以前の黙示録解読では殆ど取り上げていませんので、少々長くなりましたが霊界の住人のコメントを参考に解説しました。
この中で重要なのは「小羊が神の巻物の封印を開く資格を得たので、これからは神の言葉を成就させる活動を小羊が取りまとめてゆく」と言うことです。
実は、この辺りの一連の内容と、小羊であるイエスが取りまとめる『バチカンの拠点』が管轄する欧州地域の歴史に符合する部分があるのですが、ご覧の皆様は気がつきましたでしょうか。
以前、黙示録解読の関連として投稿した記事【『ヨハネの黙示録』では語られなかったこと】では、ギリシャ神話の神々を二十四人の長老として描いている可能性に言及しましたが、今回改めて黙示録を読み進めてゆくと、ギリシャ神話の神々に限らず、北欧神話やケルト神話など、古の神話に記されている神々についても同じことが言えるようです。
民族毎に異なる神への信仰があったのですが、それらの神々が黙示録では長老として描かれています。
かつてはそれでも機能していたのですが、赤い竜が反乱を起こした為に天から追放されて地上に逃げてくると、今後は赤い竜自身を人間にとっての神と位置づけて、全ての人間が赤い竜を唯一の神として崇め奉るように干渉します。
その過程で、黙示録の長老達と地上の各民族との関係が分断されて、もはや長老達では神の御許に引き上げる為に人々を束ねることができなくなってしまいました。
このままでは、神の言葉を成就させる活動が滞ってしまいます。
そこで長老の一人が一計を案じて、長老達の代わりに人間と神の間を取り持って、人々を神の御許に引き上げる為に束ねる者を新しく立てます。
それが小羊であるイエスで、イエスが人として神の言葉を証しする活動をした結果、神の御許に引き上げられました。
赤い竜によって一旦は分断されかかった神と人との繋がりを、イエスが間を取り持つことによって繋ぎ直したのです。
現在はキリスト教会が継続的に赤い竜の干渉を受け続けていて、残念ながら聖書に記された神の言葉やイエスの教えから離れてしまった側面もあります。
それでもキリスト教会はイエスにとって重要な存在である事に変わりありませんので、この度の『神の裁き』を通じて、今まで教会に蔓延ってきた穢れを一掃して、神の言葉を成就させる為にキリスト教会が担う役割を果たせる様に環境を整えるのだと考えております。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2016年8月26日金曜日

[黙示録再解読]:アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙

『銀の紐』掲載の黙示録関連記事を初めてご覧になる方は、先にこちらの記事をご覧下さい。

【黙示録関連記事一覧】

[黙示録再解読]関連の過去記事はこちらにまとめておりますので、適宜ご利用下さい。

【[黙示録再解読]関連記事一覧】





■ アジア州にある七つの教会に宛てた手紙

このテーマについては、以前の黙示録解読で一通り説明していますので、基本的には人間視点から見た以前の解読と今回の内容を比較して、適宜補足を加える方向で進めます。
本題に入る前に、このテーマにおける注目点について、霊界の住人の見方を伺っています。

曰く、ここで注目しておきたいのは、それぞれの教会が示している地域毎に、発展した文化や民族・生活習慣などの違いがあっても、皆が同じゴールを目指していて、最終的には同じ価値観に辿り着きます。
現時点でそれぞれの地域が持っている異なる特質は、ゴールへ至るまでの過程の違いに過ぎなくて、例え今はどの集団に属していても、最終的には必ず同じ結論に達します。
だからこそ、ここでは七つの金の燭台の間を歩く方として、イエスが象徴的に描かれています。
前回の記事で述べたように、イエス自身が全ての地域を司っているわけではありませんが、イエスと同様の役割を担う者が各地に向けて働きかけています。
黙示録は聖書に束ねられており、聖書はイエスが司る地域に暮らす人々に向けて残された文書であるため、同様の役割を持つ者たちを代表してイエスの活動として描いています。
今回の『神の裁き』で特に注意深く観察しておきたいのは、欧州・米国・日本の動向で、これらの地域の選択が世界に大きな影響を及ぼすことになります。
甘言に惑わされることなく、世界のありのままの姿を見極めたいものです。
神は信じる対象ではなく、理解する対象です。
神の言葉は霊的真理を表しているため、盲目的に信じても成長できません。
神を理解するには、世界を具に観察して世の理を理解するのが最も近道となります。

この中で「霊的真理」という言葉について補足すると、神の言葉とは私たちが存在する世界を成り立たせる仕組み、私たちの目の前で展開するあらゆる物事を、その様な状態や結果へ導く法則性を表している…とでも言えば良いでしょうか。
その膨大かつ微細な仕組みの数々について表現するには、限られた紙面に綴った文章だけではとても足りませんので、あくまでも聖書に記された神の言葉は理解のきっかけとして利用する為の物です。
その霊的真理を更に深く追求するには、世界のあらゆる出来事を具に観察する中から、自分自身の経験を積み、洞察力を養ってゆかなくてはなりません。





■ エフェソにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、エフェソにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』だと述べました。
そしてエフェソにある教会の天使とは、バチカンを中心としたカトリック教会において神の僕としての役目を担う者であり、ローマ教皇が代表的な存在としてあげられます。
カトリック教会の存在を通じて、神の言葉を記録した聖書を後の世へ伝え、また神が地上の諸国民に働きかける拠点の一つであるバチカンの地を、カトリック教会にとって聖なる土地として守り続けてきました。
神の僕である「霊界と地上界を繋ぐ拠点の覡」としてのローマ教皇を、カトリックにとって権威ある存在とし続けてきたことも、カトリック教会の功績として数えられるでしょう。
一方、エフェソにある教会であるバチカンのカトリック教会から失われてしまったものもあります。
それは「始めの頃の愛がなくなってしまった」=イエスの教えが形骸化して変質してしまったので、悔い改めて始めの頃の行いに戻るように求めています。
ここで悔い改めなければ、あなたの燭台を取りのけてしまうと述べていますが、一度黙示録の内容を通して読み込まれた皆様でしたら、この意味は容易に理解できるでしょう。
黙示録の第十七章で「多くの水の上に座っている大淫婦」に対する『神の裁き』について述べていますが、そこで一時的にエフェソの教会という燭台が取りのけられかねない危機に見舞われる可能性に言及しています。
一方、ニコライ派の行いを憎んでいることを取り柄としていますが、ニコライ派とはプロテスタントなどカトリック以外の諸教派を指しています。
イエスも憎んでいるというニコライ派の行いとは、エフェソの教会であるバチカンの拠点から距離を置き、教会の天使である覡役のローマ教皇を差し置いて、独自に宗教的権威を立てたこと、そして記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ補足1】で述べたように、第二の獣の手管により諸国の民の右手か額に獣の刻印を押させる役割を担ったことです。
勝利を得る者には神の楽園の命の木の実を食べさせるとあるのは、黙示録の第二十一章~で第二の死――火と硫黄の池に投げ込まれるのではなく、新しい天と地に暮らすことを許されて、聖なる都エルサレムで神と僕の共同統治を行う一員となれることを指しています。

以上の、人間視点から見たエフェソにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、今回の『神の裁き』によって価値観の変化が最も大きく現れるのがこの地域です。
『神の裁き』を通じて、この地域に暮らす人々の価値観に変化が生じることによって、はじめて霊界と物質界を繋ぐ拠点が正しく機能する準備が整います。
今はまだ物質界の影響が強く、霊界の影響が弱い状態にあるので、両者が互いに作用し合って安定した状態を保てるようになる必要があります。
その為にも、この地域では数々の試練を乗り越えることによって、既存の価値観には欠点があって、変える必要があることに気づかなくてはなりません。
その試練は過去の選択の結果として表れているので、過去の選択の結果を全て刈り取るまで苦難が続きます。
この地域に暮らす人々は、それらの苦難から何を学び取り、どの様な国作りを行うのかが問われています。





■ スミルナにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、スミルナにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐエルサレムの拠点』だと述べました。
そしてスミルナにある教会の天使とは、聖書の創世記に登場するアブラハムの子孫であり、今のところその代表者が誰であるかはよく分かりません。
何故かというと、アブラハムをルーツとする「アブラハムの宗教」にユダヤ教、キリスト教、イスラム教があり、そのうちのキリスト教はエフェソにある教会に関係があるので除外すると、ユダヤ教とイスラム教の中にアブラハムの子孫が混在していると考えられるからです。
旧約聖書やクルアーンの中に、その辺りの事情についての記述が含まれている可能性はありますが、黙示録からその辺りの事情を読み取ることは出来ません。
さて、スミルナにある教会の天使は苦難と貧しさの中に置かれ、また自らをユダヤ人と名乗る者によって非難されているようです。
ユダヤ人と名乗っていても、実はサタンに与する偽者であり、スミルナの教会の天使を虐げています。
天使の生活環境は厳しくても、神との繋がりにおいては豊かなのですが、これからも悪魔の試みによって様々な苦難を乗り越えなくてはなりません。
イエスはスミルナの教会の天使に対して、死に至るまで(神との契約に対して)忠実であれば、命の冠を授けると述べています。
そして勝利を得る者は第二の死を免れて、黙示録の最後にあるように、新しい天と地で聖なる都エルサレムに集うことが出来るのです。

以上の、人間視点から見たスミルナにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、この地域に暮らす人たちは、今回の神の裁きの時点では、自分自身の行いよりも周囲の環境による影響が大きく現れてしまいます。
周囲の環境に翻弄されながらも、どれだけ霊的真理を学び取れるかが大きな鍵となります。
誘惑に負けず、神の言葉の実践者として苦難を乗り越えることが出来れば、イエスのように神の御許に引き上げられるでしょう。





■ ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、ペルガモンにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐ米国の拠点』だと述べましたが、詳しくは五大湖のほとりのどこかにあるようです。
そしてペルガモンにある教会の天使とは、米大陸の先住民族であるインディアン部族の中にいると思われます。
まず、ここにはサタンの王座があります。
その様な土地にあってもイエスの名を守って、イエスに対する信仰を捨てなかったとありますので、ペルガモンの教会の天使はサタンの唆しに惑わされない、イエスの教えに対する強い確信があることが分かります。
しかし、一部にバラムの教えを奉ずる者がいて、かつて聖書(民数記第二十二章~第二十五章、第三十一章)でバラムがイスラエルの子らを躓かせる方法をモアブ人の王バラクに教えたように、彼らに偶像に捧げた肉を食べさせ、淫らなことをさせようとしています。
「偶像に捧げた肉を食べさせる」とは、悪魔を信奉して恩恵に与ることで、本来なら受け取れる立場にないものを強引に奪い取ったり、正当な手順を踏まずに身勝手な解釈を押しつけたり、不正な手段で富を独占する行為や考えを指します。
また、ここにもニコライ派の教えを奉ずる者がいます。
そこでイエスは悔い改めるように呼びかけて、悔い改めない者に対しては自分の口の剣で戦おうと述べています。
口の剣で戦うとは、言葉で説得するという意味ですが、イエス自身の口の剣で戦うのですから、かつてイエスがヨハネに伝えた黙示録の記述通りの出来事が後に実現することによって、その様を目の当たりにしたバラムの信者もニコライ派も、イエスの言葉を否定できなくなると言うことでしょうか。
そして勝利を得る者には隠されていたマンナと白い小石を与えるとあり、マンナは主がイスラエルの民の為に天から降らせたパンであり、白い小石とは裁判で無罪の判断を示すものです。
ここに至ってペルガモンの教会の天使は、バラムの信者やニコライ派による不遇な扱いを返上し、教会の天使としての活力がますます活発になるのではないでしょうか。

以上の、人間視点から見たペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、今回の神の裁きで、最も大きな影響を与えることになるであろう地域がここになります。
サタンの王座があると記しているように、神の計画に則って物事が進むのを嫌う傾向にあります。
この地域はサタンが己の優位性を知らしめるために、特に大きな影響力を行使する場所になります。
あらゆる手段を行使して、神の計画を阻止する為に働くことになります。
しかし、それすらも神の計画に含まれており、全ては想定内の出来事です。
この様な状況下にあっても、神の言葉を実践し続けることが出来る者は幸いでしょう。





■ ティアティラにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、ティアティラにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐ日本の拠点』だと述べましたが、霊媒Mによると、東京にある皇居を中心として、関東平野を覆い尽くすほど大きな光の柱が、天に向かって伸びているイメージとして感じられるのだそうです。
そしてティアティラにある教会の天使とは日本の歴代天皇であり、天皇陛下が宮中祭祀を執り行われることにより、日本に取って特別に権威ある存在であることを裏付けています。
まず、イエスはティアティラの教会の天使の行い、愛、信仰、奉仕、忍耐の様子をよく心得ており、特に天使の近頃の行いが、最初の頃より勝っていることもよく見て、褒めています。
これは天皇陛下が日本の拠点の覡役としての役割を全うしていることですが、特に「天使の近頃の行い」とは明治以降に日本の拠点の活動が活発化し、覡が担う役割の幅が広がったことを指しています。
しかし、ティアティラの教会の天使が、イゼベルという女のすることを大目に見ていることだけは問題視しています。
イエスは悔い改める機会を与えましたが、イゼベルは淫らな行いを止めようとしません。
イゼベルは聖書の『列王記上』第十六章~第二十一章にかけて登場しますが、ここではイゼベルとは朝鮮を指すのだそうです。
イゼベルは「私には神の言葉が分かる」と称して、神の僕たちに嘘偽りを教えたり、惑わせて淫らなことをさせ、偶像に捧げた肉を食べさせようとしています。
サタンが王座を構えるペルガモンの教会でも「偶像に捧げた肉を食べさせ」ていますので、イゼベルはサタンの眷属として活動していることが分かります。
そこでイエスはイゼベルを床に伏せさせ、またイゼベルと共に淫らなことをする者たちにも、その行いを悔い改めないなら、酷い苦しみに遭わせて、イゼベルの子供たちを打ち殺します。
そうすることによって全教会(=アジア州にある七つの教会)は、イエスが人の思いや判断を見通す者だと悟るようになります。
イエスは、全ての人々の行いについて、各自の行いに相応しい報いを与えるからです。
イゼベルは床に伏せさせられるのですが、聖書で「床」とは「寝床」の表現として使われていますので、起き上がれないほどの重篤な病に冒されるのでしょうか。
そしてイゼベルの子供たちは打ち殺されるのですから、韓国と北朝鮮は無くなってしまう――恐らく『神の裁き』の過程で合併して一つの国家になるのでしょうが、南北統一後の朝鮮半島の国家は活力を大幅に失って、もはや対外的な影響力を及ぼせないほど衰退すると読めるのですが…。
ティアティラの人たちの中にいて、イゼベルの教えを受け入れずに、サタンの奥深い秘密を知らない者には、別の重荷は背負わせないので、ただイエスが訪れるまで、今持っているものを固く守るように申しつけています。
ここではティアティラの人たち=日本にいる人たちに向けて、今持っているものを固く守るようにアドバイスしています。
「今持っているもの」とは、日本の国土、天皇を中心とした国家の枠組み、古から伝わる伝統と文化等々で、日本の側から相手に侵攻するのではなく、相手を自国に踏み込ませず、仕組みや慣習の変更を強いる企みをはね除けるなど、自国の防衛によって凌いで欲しいと言うことでしょうか。
そして勝利を得る者、またイエスの業を終わりまで守り続ける者には、イエスより諸国の民の上に立つ権威を授けられます。
イエスがかつて父である神からその権威を捧げられたように、ここで勝利を得る者に受け継がれることが示されています。

以上の、人間視点から見たティアティラにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、今回の『神の裁き』を通じて大きな転換期となる地域です。
ここで重要なことは、何故苦難に遭うことになったのか、今までの己の行いを顧みることです。
無知であったために誤った認識に基づいて成り立っていた『常識』を振りかざしていた、という事実に気づきましょう。
一見すると誠実で素晴らしく見える考えや行いでも、更に詳しく見ると、実はとても不誠実な考えや行いであったかもしれません。
イゼベルの行いを観察する中から何を学び取れるかがとても重要です。
相手の非を追及するのはとても簡単なことですが、それではいつまでも苦難から抜け出せません。
己の行いが不適切であったことを認めて、改める姿勢が大切です。
あらゆる物事の結果は、各々の選択に則っているので、思う様に結果が現れないならば、どこかで選択を誤っていたのです。
選択を誤ったのは自分自身であることを自覚しましょう。
イゼベルが床に伏せられ、イゼベルの子供たちが打ち殺されるのと、この地域の人々が己の行いを顧みて、これまでの経験から学べるかはまた別の話となります。
この経験から霊的真理を学び取ることが出来れば、勝利を得る者となるでしょう。





■ サルディスにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、サルディスにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐスーダンの拠点』だと述べました。
そしてサルディスにある教会の天使とは、恐らくスーダン土着の宗教で権威ある者を指すのだと思いますが、スーダン国内の事情がよく分かりませんので、サルディスの教会の天使について、『銀の紐』としては今のところ特定できない状態です。
また2011年に南スーダン共和国が分離独立し、日本からも自衛隊をPKOとして派遣していますが、治安が不安定な状態が続いています。
まず、イエスはサルディスの教会の天使について、あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいると述べており、目を覚まして、死にかけている残りの者たちを強めるよう求めています。
これではイエスの目から見ても、十分に教会の天使としての務めを果たしているとは言えません。
そこでどの様に(教会の天使の務めを)受け、(その役目の意義を)聞いたかを思い起こして(サルディスの教会を)守り抜くように、悔い改めよとイエスに諭されています。
恐らく古の時代に土着の宗教において権威ある者が、スーダンにある宗教上の聖地とされる場所を、必要とされる時が来るまで世代を越えて守り続ける役割を引き受けたはずなのですが、その聖地(『スーダンの拠点』)が蹂躙され、今や「そこが宗教上の聖地である」という記憶さえ失われようとしているのです。
そして目を覚まさない者に対して、イエスは盗人のように行くと述べています。
ただ誰にも気づかれないように、抜き足差し足でこっそり現れるだけでなく、盗人が盗み取るように、本人の知らないうちに教会の天使としての(拠点を聖地として守り続ける)役目を剥奪します。
しかし、少数ながら衣を汚さなかった者がいて、この者たちは汚れていない白い衣を着てイエスと共に歩みます。
勝利を得る者とは白い衣を着せられており、命の書から名前を消されることもないので、最後の審判を経て、天と地を新しくした後の「聖なる都エルサレム」に集うことが出来るのです。

以上の、人間視点から見たサルディスにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、今回の『神の裁き』の影響をある程度受けるものの、霊的には不活発な状態にあります。
自ら求め、行動することを学ぶ必要があります。
他人はその者の都合で動くことを知る必要があります。
霊的には、最も厳しい環境に置かれていると言って良いでしょう。
その様な厳しい環境下にあって、神の言葉を実践できる者は強靱な精神の持ち主だと言えるでしょう。
この地域が霊的に活発になる時期はまだ先のこととなります。





■ フィラデルフィアにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、フィラデルフィアにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐチベットの拠点』だと述べました。
そしてフィラデルフィアにある教会の天使とはダライ・ラマ法王です。
ダライ・ラマ十四世法王は、チベットの拠点の覡として覚醒しているわけではありませんが、ダライ・ラマをチベット仏教における権威ある存在として後の世に伝える役目を担っています。
イエスはまず、フィラデルフィアの教会の天使に向かって「あなたの前に門を開いておいた。誰もこれを閉めることは出来ない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないといわなかった。」と述べています。
これはフィラデルフィアの教会が長らく天然の要害に守られて来たものの、遂にそこへ至る門が開かれた時、フィラデルフィアの教会は力の弱さを思い知ることになります。
中共に国土を蹂躙され、多くのチベット人が虐殺・弾圧されている実態に符合します。
しかしチベットはそのまま中共に屈するのではなく、ダライ・ラマ十四世によりインドにチベット亡命政府が成立するなど、チベット人は劣勢ながらも民族と文化と宗教の伝統を守るため、中共に対する抵抗を続けています。
ここに「サタンの集いに属していて、自分はユダヤ人であるという者たち」が登場します。
彼らはスミルナにある教会で「自分はユダヤ人である」といった者共の同類で、フィラデルフィアの教会を蹂躙したのは彼らの仕業なのですが、ここでイエスは彼らを、フィラデルフィアの教会の天使の足元でひれ伏すようにすると述べています。
神の裁きの時にあたり、諸国の民はこれまでの各々の行いに応じて裁かれるのですが、ここまで試練の時を過ごしてきたフィラデルフィアの教会は、今までの忍耐を認められて、裁きの混乱から守られるのです。
そこであなたの栄冠を固く守るようにと言うのは、ダライ・ラマの世界的な宗教指導者としての立場と行動、隣国に亡命しながらもチベットの旗を掲げ続けた矜持を保つことでしょうか。
勝利を得る者には「神の神殿の柱」として、神の御許に引き上げられることになります。
そして神の僕の証しである神の名が記され、神の都の住人の証しである神の都の名が記されます。

以上の、人間視点から見たフィラデルフィアにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、この地域を蹂躙している者たちは、今回の『神の裁き』を通じて大きく影響力を削がれるでしょう。
本来受けるべきではないものを貪り続けた結果、肥大化しすぎて維持が出来なくなるのです。
本来この地域を統治するためにいる人々は、その時が来るまで苦難に耐え、神の言葉の通りに実践し続けることが出来れば、必ず勝利を得る者となります。
その勝利は誰の目にも明らかなものとなるでしょう。
チャンスが訪れた時に適切に行動できるか否かが問われてきます。





■ ラオディキアにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、ラオディキアにある教会とは上記の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を除いた全ての場所だと述べました。
そしてラオディキアにある教会の天使とは、上記各教会の天使を除いた全ての人を指します。
ですから、今この記事をご覧の皆様の大半の方に向けて送られた手紙と言うことになります。
そこでイエスは冒頭「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。」と述べて、明確な信念もなく、日和見でどっち付かずな姿勢を咎めています。
更に「熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを吐き出そうとしている。」と述べて、このままではイエスも匙を投げて見捨ててしまいたいほどの惨状であることを示唆しています。
そんなあなたは「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない」と言っていても、イエスから見ると「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」であり、その哀れな姿を自覚すらしていないところがまた哀れなのです。
しかしイエスはそこであなたを見捨てることはなく、三つのアドバイスを与えて悔い改めを促します。
「裕福になるように、火で製錬された金をイエスから買うように」
「裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買うように」
「見えるようになるために、目に塗る薬を買うように」
この三つのアドバイスについては、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ補足3】で詳しく述べています。
イエスは愛する者を叱ったり、鍛えたりするので、今までの行いを悔い改めて、熱心に取り組むように促しています。
イエスはあなたの家の戸口に立って、扉を叩いているので、イエスの声を聞いて扉を開けさえすれば、イエスはあなたと食事を共にすると述べています。
その様にして勝利を得た者は、かつてイエスが神の御許に引き上げられたように、今度はイエスがあなたを神の御許に引き上げてくれます。

以上の、人間視点から見たラオディキアにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、これは、世界に存在する特定の地域に限定されない人々を表していて、彼らは霊的なことについての関心がなく、物質的なことのみが関心の対象となっています。
自分の五感で感じ取れるもの以外は信じないので、ある意味正直者ではあっても、一方で目先の物事しか考えられず、周囲への影響を自分の都合だけで推し量ってしまいます。
興味の対象が物質的な物事なので、物質的な側面を追求したがります。
この世の全てが物質で成り立つという思考の持ち主なので、神の御許に引き上げられることには興味を持ちません。
この世の栄耀栄華を極め、世界の支配者になりたがるのがこのタイプです。
彼らが霊的真理に関心を持つようになるためには、まだ多くの経験が必要になります。





■ アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙のまとめ

このテーマについては、以前の黙示録解読の内容を人間視点として復習しながら、霊界の住人の視点から見たコメントを付け加えて比較する形式を取りました。
まず冒頭で総論として、七つの教会は地域・文化・慣習の違いから表面的には別物に見えても、その根本にある価値観は共通していて、最終的には皆同じ価値観に辿り着くと述べています。
更に、今回の神の裁きでは欧州・米国・日本の動向が世界に大きな影響を及ぼすとしていますので、欧州にあるバチカンの拠点=エフェソの教会と、米国の拠点=ペルガモンの教会と、日本の拠点=ティアティラの教会の動向を特に注視しながら、黙示録の記述が現代に証しされる様子を確認することになります。

さて、前回の記事【[黙示録再解読]:ヨハネに黙示録を伝えた意味】にて、神と七つの霊とイエスについて述べている箇所があります。
そこでは「玉座の前におられる七つの霊」について、屠られたような小羊であるイエスが勝利を得た時に、神から渡された巻物にある七つの封印があって、その封印を施したのが七つの霊だと述べ、七つの霊が世界に六カ所ある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』拠点を築くために尽力したと述べました。
七つの霊と六カ所の拠点では数が合いませんが、その点について前回の記事では言及しませんでした。
以前の黙示録解読ではこの点を六カ所の拠点+αとしましたが、ここで改めて整理しておきましょう。
以前の黙示録解読や前回の再解読記事でも述べているように、『ヨハネの黙示録』とは、天と地を新しくした後に、聖なる都エルサレムを神と僕による共同統治をすることになっていて、出来るだけ多くの者をそこへ導く為に『人間(に宿る霊の)育成計画』として記されました。
しかし、天と地を新しくした後の地球上は、勝利を得た者でなくては存在することが出来ません。
そこで、より多くの者が勝利を得るための働きかけとして七つの段階を設定し、特定の条件を満たす毎に次の段階へとステップアップする仕組みを設けました。
それが今回の記事である「アジア州にある七つの教会」であり、即ち小羊イエスが神から渡された巻物にある七つの封印です。
七つの封印のうちの六つは、特定の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を開くことですが、これらは皆七つ目の封印であるラオディキアの教会を機能させる為の下準備であり、七つ目の封印を開いてラオディキアにある教会の天使をきちんと教会の天使として機能させることによって、他の六つの封印(六カ所の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』)を開いた目的がようやく報われることになります。
そして七つ目の封印を開くこととは、ラオディキアにある教会の天使である、ご覧の皆様を含めた全ての人間を、肉体に宿った状態でのままで、神と直接霊的エネルギーのやりとりが出来る程度に霊媒能力を覚醒させることです。
対象となるのが全ての人間ですので、七つ目の封印に該当する特定の拠点は存在せず、敢えて言えば地上全体が七カ所目の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』となります。
また、七つの霊とイエスの関係を述べると、七つの霊が七つの封印の開閉を管理する扉であり、イエスが扉の錠を開くための鍵となります。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2016年8月12日金曜日

[黙示録再解読]:ヨハネに黙示録を伝えた意味

『銀の紐』掲載の黙示録関連記事を初めてご覧になる方は、先にこちらの記事をご覧下さい。

【黙示録関連記事一覧】

[黙示録再解読]関連の過去記事はこちらにまとめておりますので、適宜ご利用下さい。

【[黙示録再解読]関連記事一覧】





■ 『ヨハネの黙示録』を再解読するに当たって

以前行った『ヨハネの黙示録』を解読する記事では、黙示録の第一章について殆ど取り上げませんでした。
当時、黙示録の解読に協力して頂いた霊界の住人から、第一章についての言及はありませんでしたし、管理人も「ヨハネの元に黙示録がもたらされた背景の説明」と理解していましたので、他の重要な部分の説明を優先した方が良いと判断しました。
しかし今回の再解読に当たって、黙示録の第一章について、霊界の住人から詳細な説明がありました。
そこで、黙示録再解読の始めに、以前読み飛ばしてしまった黙示録の第一章を詳しく読み込んでいきたいと思います。
二章以降については、前回の解読でもある程度説明していますので、人間の視点と霊の視点を比べた場合の解釈の違いについて指摘する流れになると予想しています。
前回同様に、今回の再解読でも聖書の記述と照らし合わせる作業は必須になると思いますし、以前の解読記事と見比べる作業も必要になってきます。
基本的には、前回の黙示録解読記事を熟読されているという前提で進めますので、疑問点についてはその都度該当する記事のコメント欄にお寄せ下さい。

前置きはこの程度として、そろそろ黙示録の再解読に取りかかりましょう。





■ 『ヨハネの黙示録』がヨハネの元にもたらされた意味

黙示録の第一章の冒頭に、この文章が「イエス・キリストの黙示」として、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためにキリストに与え、そのキリストが天使を僕ヨハネの元に送って伝えたものだと述べています。

すぐに起こるはずのこととは、「イエス・キリストの黙示」が僕ヨハネに伝えられた時点では未来の出来事であり、僕ヨハネを通じて他の僕たちへ伝えられることを意図しています。
ご覧の皆様は、黙示録の冒頭にさりげなく「すぐにも起こるはずのこと」と添えられているのは何故だと思いますか。
黙示録の内容を理解していない人は、その一言に余り深い意味を感じないかもしれませんが、以前管理人と共に黙示録を一通り解読してきた皆様でしたら、その一言に込められた意味合いに気がついているでしょう。
以前の黙示録関連記事で、『ヨハネの黙示録』とは、神による人類育成計画の大まかな計画書であり、人類が滅亡するまでの概要を示した上で、大淫婦である大バビロンに対して下される神の裁きに焦点を当てて、そこで神の裁きが何故下されるか、どの様に下されるか、神の裁きとは何なのか――などについて解説しましたが、これらの黙示録の全体像を理解していると、「すぐにも起こるはずのこと」も自ずと明らかになります。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ補足4】にある黙示録に記された物語の大まかな流れを見ると、その物語の最後にある「聖なる都エルサレムで神と僕の共同統治が行われる」のが、黙示録によって神が示した最終目的なのですが、その最終目的に至る途上にある「小羊イエスが第二の封印を開く」時点が、黙示録にある大淫婦に対する神の裁きの時期であり、それが現在進行中の出来事となります。
黙示録では、イエスが勝利を得て神の御許に引き上げられたことによって、神の右手にある書物にかけられた七つの封印を開く役割を委ねられました。
その七つの封印のうちの二つ目の封印が開かれたばかりです。
黙示録によると、今後小羊イエスは七つの封印を開いて、イエスと聖なる者たちによる千年の統治を経て、サタンが復活した後に最後の審判を経て、ようやく黙示録に記された最終目的に達します。
その長い道程のうち、第二の封印を開いた時に行われる「大淫婦に対する神の裁き」について、黙示録では詳しく説明していますので、実際に「大淫婦に対する神の裁き」が行われている様子を、現代を人として生きる神の僕たちが確認できれば、僕ヨハネの元にイエスの黙示がもたらされた目的の半分は達せられたことになります。
黙示録の冒頭にあるように、「すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためにキリストに与え、そのキリストが天使を僕ヨハネの元に送って伝えた」結果、黙示録の全体像から見れば「すぐにでも起こる」と言って差し支えない時期に、その時代を生きる神の僕たちが、自分の目で「かつてイエスが僕ヨハネに伝えた神の言葉が、今目の前で現実となった」ことを確認する機会となります。

黙示録の第一章第二節には、ヨハネが神の言葉とイエス・キリストの証しとして、自分の目で見た全ての出来事を証ししたとあります。

ここでヨハネは、「神の言葉とイエス・キリストの証し」としているように、神とイエスを別々の存在として認識しています。
従来のキリスト教では、三位一体が中心的な教えの一つとされているようですが、ここで示されているヨハネの認識からも、神とイエスは別の存在であり、三位一体論とは食い違いが見られます。
最初に神が言葉を発し、イエスが神の言葉に基づいて行動してみせることによって、神の言葉の正しさを証明します。
「神の言葉の証し」としての生涯を全うしたイエスは、死後神の御許に引き上げられますが、今後は「神の言葉を証しすることによって、イエスは神の御許に引き上げられた」ことを、イエス・キリストの黙示を伝えられたヨハネの経験を示すことによって証しするという形を取っています。
この黙示録は、「かつて神の言葉を成就したイエスが神の御許に引き上げられ、そのイエスが神の言葉をヨハネに伝えた」預言なので、かつてイエスが神の言葉を成就させたように、黙示録に綴られた神の言葉も成就される、となります。

だからこそ、続く第一章第三節にあるように、この預言の言葉を朗読したり、聞いたり、ここに記されてたことを守る人は幸いなのです。
この黙示録を通じて、これから起こる出来事とそれが起こる理由、その事態に対処する術を予め知って、その時に備えることが出来るのですから。





■ ヨハネからアジア州にある七つの教会へ

黙示録の第一章第四節~第六節には、ヨハネから、アジア州にある七つの教会へのメッセージとして、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」から、また「玉座の前におられる七つの霊」から、更に「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」であるイエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように、と述べています。
続けて、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」に、「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方」に、栄光と力が代々限りなくありますように、とあります。

ここでヨハネは、神と七つの霊とイエスについて述べています。
「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」とは、今ヨハネに神の言葉を伝える役目をイエスに託した神であり、かつてイエスが人間として神の言葉を成就するように導いた神であり、その黙示録の最後で天と地を新しくした『聖なる都エルサレム』を、神の僕と共同統治することになる神です。
また「玉座の前におられる七つの霊」とは、屠られたような小羊が勝利を得た時に、神から渡された巻物に七つの封印があるのですが、その封印を施した者と言えるかもしれません。人間が地上に誕生する際に六カ所の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を築いたのですが、その拠点を築くために尽力したのが「七つの霊」とのことです。
六カ所の拠点は人間が誕生する際に設置され、その後日本の拠点を除いて一旦は閉じられましたが、去る2011年末にバチカンの拠点が開きました。
ここからはイエスについて述べていて、「証人」とは神の言葉を証しした者であり、「誠実な方」とは神の言葉の前に誠実であった者です。
そして「死者の中から最初に復活した方」とは、黙示録の第五章に記されているように、神の言葉を証しすることによって生涯を全うしたイエスが、死後に勝利を得て神の御許に引き上げられたことを指します。
「地上の王たちの支配者」とは、その先に「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える司祭としてくださった方」とあるように、ヨハネを始めとして地上で活動する神の僕たち、神の言葉がやがて成就することを人々に説いて回る者たちは、神の御許へ導く為に人々を束ねる者という意味の王であり、同時に彼らはイエスの証しを通じて、神に仕える祭司となるきっかけを掴みました。
「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」とは、イエスの人間としての生涯を通じて、自らの血を流しながらも、神の僕としてのあり方や、人間が勝利を得るための道標を示したことを指します。

黙示録を解読する前でしたら、単純にこれらは皆福音書に示されているイエスの事績を並べていると思うかもしれませんが、既に管理人と共に黙示録を解読された皆様でしたら、これらはイエスについて述べているのと同時に、イエスと同様の役割を担う別の者についての言及が含まれている気がつかれると思います。
黙示録の第六章にある、小羊が神から渡された巻物の七つの封印を開いてゆく件がそれで、黙示録では小羊=イエスとして、小羊が七つの封印を順番に開く流れとなっていますが、その中で実際にイエスが関わるのは第二の封印である『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』であり、他の封印についてはイエスと同等の役割を担う別の者が関わる旨、以前の黙示録解読記事で言及しました。
『ヨハネの黙示録』とは、キリスト教の聖典である聖書に収められているからこそ、七つの封印を開く役割をイエスに代表させましたし、バチカンの拠点が管轄する地域の人々が、他の地域の事情について知る必要はありません。
しかしヨハネは、黙示録においてイエスの名で表される者がイエスその人だけではないことを理解していました。
巻物の封印は七つあるのですから、イエスと同様の役目を担う者がイエス自身を含めて七名いるのです。

黙示録の第一章第七節では、その方が雲に乗って来られる様子を、全ての人の目が、そして特に彼を突き刺した者どもは、その様子を仰ぎ見ることになります。
そして地上の諸民族は、彼のために嘆き悲しみます。

その方とは、神の言葉を証しすることによって処刑されたイエスであり、そのイエスが雲に乗ってくるのですから、勝利を得た者として神の御許に引き上げられた後に、神の名代として諸国の民の前に現れました。
その様子を全ての者が仰ぎ見て、とりわけ直接イエスの息の根を止めた者たちは、自分の手で殺めたはずのイエスが目の前に現れた様子に恐れおののいたことでしょう。
地上の諸民族はその時に初めて、自分たちがその手にかけて亡き者とし、あるいは直接手を下した者の行いを支持し、あるいは黙認し、もしくは無関心を決め込んだ当の相手が、今や天に引き上げられて神の御許で裁きを下す者となったと感じ取ったのですから。
但し、上で「イエスと同様の役目を担う者がイエス自身を含めて七名いる」と述べたように、イエス以外の六名についても、何らかの形で神の言葉を証しすることによって処刑され、勝利を得た者として神の御許に引き上げられた後に、再び神の御用で地上の諸民族の前に姿を現すことがあり得るのでしょう。
そこで「その方」として、イエス以外にも同様の役割を担う者がいて、イエスのように処刑された後、再び地上の諸民族の前に現れる者がいることを示唆しています。

黙示録の第一章第八節では、「神である主」、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」、「全能者」がこの様に言われました。
「私はアルファであり、オメガである。」、とあります。

ここで「神である主」が、「私はアルファであり、オメガである」と述べています。
この文言は、後に黙示録の第二十二章第十三節でも繰り返されており、その意味は「最初の者にして最後の者」、そして「始めと終わり」です。
始めと終わりとは原因と結果の関係を司る因果律であり、「神の言葉とイエス・キリストの証し」も神が因果律を管理する証拠の一つと言えるでしょう。
ということは、かつて人であったイエスが勝利を得て神の御許に引き上げられた様に、現在人間である霊媒や管理人、そしてご覧の皆様がイエスを手本に神の境涯への至るには、因果律について理解を深めることが非常に重要になると思いますが、いかがでしょうか。

黙示録の第一章第九節では、わたしはあなた方の兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。
わたしは神の言葉とイエスの証しの故に、パトモスと呼ばれる島にいた、とあります。

ここでヨハネが、共にイエスと結ばれている兄弟と述べているのは、アジア州にある七つの教会に集う者たちです。
ヨハネが神を主とし、イエスを主とする神の僕であるように、アジア州にある七つの教会に集う者たちも神の僕であり、志を同じくする兄弟です。
そしてイエスと結ばれているからこそ、かつてイエスが神の言葉を証しする為に苦難と忍耐を重ねたように、ヨハネもその兄弟たちも、神の僕としての役目を果たすには苦難と忍耐を強いられることを理解していました。
人の価値観と神の価値観に間には大きな隔たりがあり、神の価値観に沿うためには人の価値観――人間社会の常識や習慣、物事の価値判断から大きく逸脱することを余儀なくされ、また神の価値観は人の理解力を越えた判断を必要とするために、それを理解できる人は神の僕の役を担う者などの少数に限られます。
人の理解を超えた判断に基づいて行動する神の僕は、他の諸国民からは得体の知れない変わり者と見なされがちで、なかなか人々の理解を得られにくいので、人でありながら神の僕として生きるには苦難と忍耐を伴います。
例えて言うと、嘘で人を騙すことが当たり前の社会に、嘘で人を騙す行為が愚かであることを理解したある人が、誠実な姿勢で周囲の人々に接していた場合、嘘が当たり前である周囲の人は「嘘をついて誤魔化した方が得だし、バレたら逃げればいいのに、あいつはバカな奴だ」と思うかもしれません。
しかしその人は、嘘を吐かない誠実さが信頼を醸成し、信頼できる相手とは協力関係が築けることを知っています。
より多くの人と信頼の環で結ばれた協力関係が築ければ、たった一人の嘘吐きでは到底為し得ない大事業をも為し得るでしょう。
嘘吐きが蔓延っている社会と、信頼できる人々が協力して築き上げた社会を比べると、信頼できる社会の方がその社会の誰にとっても暮らしやすいのですが、嘘吐きの社会でその様な理解を浸透させるには長い時間がかかりますし、特に先駆者ほど周囲の理解が得られずに不当な扱いを受けやすいのです。
因みにパトモス島とはエーゲ海に浮かぶギリシャの小島で、ヨハネが啓示を受けたとされる洞窟はユネスコの世界遺産に登録されているのだそうです。
【参照:Wikipedia】





■ イエスからヨハネへの指示

黙示録の第一章第十節~第十九節では、ある主の日に、ヨハネは“霊”に満たされていた時に、後ろの方でラッパのように響く大声を聞きました。
その声はこう言いました。
「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会へ送れ」
そこでヨハネが、語りかける声の主を見ようとして振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央に人の子のような方がいて、足まで届くような衣を着て、胸には金の帯を締めていました。
その頭髪は白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃えさかる炎のようであり、足は炉で洗練された真鍮のように輝いていて、声は大水のとどろきのようでした。
右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようでした。
ヨハネがその方を見ると、その足もとに倒れて死んだようになりました。
するとその方は右手をヨハネの上に置いて言いました。
「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、まだ生きている者である。
一度は死んだが、見よ、代々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。
さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしてることを書き留めよ。

ここではまず、「ヨハネは“霊”に満たされていた」ので、ヨハネが霊の存在を感じ取れる霊媒であり、恐らくはしばしば霊に満たされる時間を持っていたであろうことが伺えます。
そこに大声が聞こえて、アジア州にある七つの教会に手紙を送るよう求めるのですが、ヨハネが霊に満たされている最中なのですから、この声の主も霊的な存在です。
その声の主は人の子のような方で、頭髪が白い羊毛のようなのですから、黙示録の第五章で神から巻物を受け取った小羊、勝利を得た屠られたような小羊に相応しい様子です。
足は炉で洗練された真鍮のようなのですが、真鍮とは黄銅のことであり、銅Cuと亜鉛Znの合金とのことです。
日本でも12世紀には真鍮が大量に使われていた例があるようですが、亜鉛が低温で蒸発するために精錬が難しいと考えられて来たようです。
その精錬が難しい真鍮に例えられるのですから、この方の苦難と忍耐に満ちたここまでの足取りが伺えます。
また、以前の黙示録解読の時に述べましたが、口から出ている鋭い両刃の剣とは「弁が立つ」ことを指しています。
そこでヨハネがその方を見ると、足もとに倒れて死んだようになるのですが、その方が死んだはずのイエスだと悟ったのでしょう。
イエスの姿を目の当たりにしたヨハネは、恐怖と言うよりは畏怖の念を抱いたのでしょうか。
その方はヨハネに「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である」と述べます。
これは先ほど神である主が「私はアルファであり、オメガである」と述べたことと同じで、イエスも神である主に並び立つ存在となった意思表示です。
イエスは人間としては死にましたが、勝利を得て神の御許に引き上げられ、永遠に生きる者となったので、「一度は死んだが、代々限りなく生き」る者となりました。
更に「死と陰府の鍵を持っている。」のですから、物質界を管理する者として、生物の生死を司る役割を担ったことになります。
ヨハネが「その方」と述べているのは、イエスと同じ役割を担う者が他にもいることを暗に示しています。

黙示録の第一章第二十節では、ヨハネはイエスの右手にある七つの星と、七つの金の燭台を見ましたが、それらに秘められた意味をイエスがヨハネに説明します。
「七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である」と。

ここでイエスの右手にある七つの星として表される天使たちは、イエスの手の内にあります。
天使とは天の使いであり、その形態は一様ではありませんが、この場合は神により与えられた役割に基づいて、人として活動する者を指しています。
『銀の紐』流に表現すると「霊界と地上界を繋ぐ拠点の覡役」であり、日本の拠点では天皇陛下になりますが、その様に特殊な役割を担う者に宿る霊は、人間としての経験から学びを得る段階を卒業しており、それ以外に特定の役割を担う目的で人間としての生涯を送ります。
人間が神の御許へ引き上げられるように製錬する作業を支援するために、神と人間の仲立ちをする接点としての役割を担っています。





■ ヨハネがイエスから指示を受けるまでのまとめ

以前の黙示録解読では第二章の解読から始めたために、今回取り上げた第一章については殆ど言及していませんでした。
第一章はヨハネの元に黙示録がもたらされた経緯の説明となっており、また黙示録をもたらしたのがイエスだという確認のためにスペースを割いていましたので、黙示録の大雑把な流れを知る上では、敢えて省略しても差し支えないという判断でもあり、またある程度黙示録の内容を理解していないとわかりにくい部分でもありました。

今回の再解読に当たって、改めて黙示録の第一章を読み返すと、かつては読み取れなかった部分についての理解が進みました。
かつてイエスは、神の言葉を証しする者としての役割を全うし、それ故に磔刑に処されましたが、死後に勝利を得て神の御許に引き上げられました。
その時点で神の言葉が後に形となったことは確認できましたが、そこでイエスが本当に神の御許に引き上げられたのか、諸国の民が確認できたのかというと、少々怪しいものがあります。
そこで今度は、イエスが神の御許へ引き上げられた後の出来事について、神の言葉をイエスが取り次ぎ、当時地上で神の僕としての役目を担っていたヨハネの元に、新たな神の言葉が伝えられました。
このヨハネの黙示録、イエス・キリストの黙示とは、イエスの事績に重ねて神の言葉を証しする試みであり、同時にかつて人であった者が確かに神の御許に引き上げられたことを証しする試みでした。
だからこそ、冒頭でこの黙示をもたらした者がイエスであることを確認するために多くのスペースを割いています。
それと共に、以前の黙示録解読の際に述べたように、人間(に宿る霊)育成計画としての黙示録を示し、その中でもイエスの名によって束ねられる地域・欧州諸国にとって大きな成長の契機となる激変期(大淫婦に対する神の裁きの時期)の様子を詳細に描くことによって、それが神の言葉の証しとなることを示そうとしました。
同時に、黙示録の中で人間育成計画の行き着く先を示すことによって、諸国の民がイエスの生涯を見習って、勝利を得て神の御許へ引き上げられる道を示そうとしました。
そしてヨハネが証しした黙示録の結果を確認するのは、大淫婦に対する神の裁きの時代に生きる私たちが担う役目となります。

Silvercord管理人 






なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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2016年8月4日木曜日

[黙示録再解読]関連記事一覧

『ヨハネの黙示録』を、神々や霊界の住人の視点から読み解いた[黙示録再解読]関連記事は以下の通りです。
なお『銀の紐』を初めてご覧になる方は、人間の視点から『ヨハネの黙示録』を読み解いたこちらの記事を先にご覧下さい。

記事【黙示録関連記事一覧】





■ [黙示録再解読]関連記事はこちら

【古事記の解読に向けた説明と基本概念】
『ヨハネの黙示録』の再解読を行う理由について

【[黙示録再解読]:霊界から見た物質界の役割】
黙示録の再解読に必要となる予備知識の説明

【[黙示録再解読]:悪魔と呼ばれ忌み嫌われる霊達と天使と呼ばれ愛される霊達】
黙示録の再解読に必要となる予備知識の説明

【「黙示録再解読」:ヨハネに黙示録を伝えた意味】
黙示録第一章

【[黙示録再解読]:アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙】
黙示録第二章~三章

【[黙示録再解読]:ヨハネが垣間見た神の玉座】
黙示録第四章~五章

【[黙示録再解読]:小羊が神の巻物の封印を開く】
黙示録第六章

(2016年9月30日時点、以下随時追記予定)





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2016年7月22日金曜日

[黙示録再解読]:悪魔と呼ばれ忌み嫌われる霊達と天使と呼ばれ愛される霊達

今回も前回に引き続き、黙示録の再解読に先立って、神々や霊界の住人の視点から黙示録を見る際に、重要になる基礎知識について、とある霊界の住人の方のコメントが届いております。

※ 初見の方は、以下の記事を先にご覧下さい。
記事【黙示録関連記事一覧】





■ 霊界の住人のコメント

前回の記事でご説明申し上げました「霊界から見た物質界の役割」に続きまして、もう一つ事前にお伝えしておきたい事柄がございますので、もうしばらくお付き合い下さい。


霊界がリアルな世界と仮定するならば、物質界は限りなくリアルに近い仮想世界であると以前の記事で説明しました。
もっとわかりやすく表現すると、オンラインゲームなどのようにコンピューター上に構築された仮想世界を物質界に例えることができます。
ゲームのプレイヤーは霊に例えることができますし、プレイヤーが操作しているキャラクターは人間に例えることができるでしょう。
キャラクター(人間)はプレイヤー(霊)の分身ではありますが、プレイヤー(霊)が指示しなければ活動することはありませんので、あくまでも主役はプレイヤー(霊)自身ということになります。
この際プレイヤー(霊)に許されている行為は、仮想世界の中で予め定められているルールに基づいた事柄に限定されております。
プレイヤー(霊)によってルールを逸脱した行為は許されておらず、また、システムの性質上どう足掻いてもプレイヤー(霊)がルール外の行為を行う事は出来ないようになっております。
そして、コンピューター上に仮想世界を設計構築し、維持管理している存在を神と呼ばれる霊(以降神)に例えることができます。
システムエンジニアが該当するでしょうか。
その神と共に仮想世界の維持管理に協力している存在を天使と呼ばれる霊(以降天使)に置き換えることができます。

ここで神と天使の違いについて少し詳しく説明しておきましょう。
神にあたる存在は、コンピューターを動かすためのシステムを開発し、尚且つそのシステム上で動くソフトも開発したようなものです。
一方天使たちは、システム上で動くソフトを開発することは出来ても、まだ、独自にシステムを開発出来るところまでの理解が及んでいない状態であると言えます。
仮想世界の設計者である神はシステムのすべてを把握しておりますが、協力している天使はまだシステムのすべてを把握するまでには至っておりません。
システムを維持する上での一定のルールは理解していますが、システムの根幹に関わるところに手を加えられるだけの知識と経験はありません。
天使は神の指示に従い、管理を任された範囲においてのみ権限を持ち、それを行使することができます。
経験を積み成長することで、より複雑で強い権限を持つ役割を担えるようになってゆくのです。

天使にも様々な成長段階があり、より神に近い存在から人間を卒業したばかりの存在まで実に多くの段階があります。
人間を卒業したばかりの霊は、まだ何も知らない新入生のようなものなので、まず先生について基礎学習をする必要があります。
例え仮想世界でプレイヤーとして極めることができたとしても、その仮想世界を支えているシステムを理解出来ているわけでは無いということです。
あくまでも、システムによって定められている仮想世界でのルールを学習したに過ぎないのです。
システムに関しては一から学ぶ必要があります。
最初のうちは幼い霊も先生や先輩から多くを学び、順調に成長してゆきます。
ところが、基礎知識を一通り学び終えたところで幼い霊達は二つのグループに分かれ始めます。
一方のグループは、より理解を深める事を求め、基礎から一歩踏み込んだ学習を求めるようになります。
時には先生の許可を得て、自分にできる範囲内で実践を試みることもあります。
彼らは周囲の出来事にも関心を持ち、よく観察して学んでいます。
とても思慮深い存在です。
もう一方のグループは、基礎を学んだことで満足してしまい、実務を行いたくて仕方がなくなってしまいます。
その為に、自分が行ってみたい実務を担っている者に何かとちょっかいをかけ、邪魔をするようになるのです。
彼らは決して悪気があるわけではなく、自分で良いと思う事柄を実践して試してみたくて仕方がないのです。
ですが、まだ充分な知識も経験もない彼らには荷が重い役割であるため、彼らの思い通りにはなかなか事が運びません。
しびれを切らした彼らは、とうとう実力行使に出ようとしますが阻止されてしまいます。
彼らのわがままですべてを台無しにすることはできません。
ですが、無理に押さえつけるだけでは、彼らの学びにもなりません。
そこで神は彼らに、限られた範囲内で権限を行使することを許可し、彼らが浅慮である事を身をもって体験し、理解出来る機会を設けます。
そして彼らは仮想世界の住人たちと深く関わるようになるのです。
こうして前者のグループが天使として活躍するようになり、後者のグループが悪魔として活躍することになるのです。

ここまでが、霊界から見た場合の悪魔と天使の説明になりますが、 人間の側から見た悪魔と天使はどうやら異なっているようです。
人間には、自分たちにとって都合よく思える存在が神や天使と認識され、都合が悪く思える存在は悪魔と位置づけられる場合が多いようです。
すべてではありませんがその様な傾向にあります。
今あなたを導いているのは、本当に神ですか?
今あなたの行く手を阻んでいるように思えるのは、本当に悪魔ですか?
視野の違いからくる誤解ですからある程度は仕方がありませんが、分かる人には分かるようですので、皆様もよく観察してみてはいかがでしょうか。


多くの経験を通じて人間たちが成長し、時代ごとに新しい概念が誕生することによって、過去よりもより詳細な説明が可能となりつつあります。
伝えている内容は過去のものと同じでも、時代によって表現出来る事柄には限りがありますので、定期的に情報の更新をする必要があるのです。
今回の説明は、人間がコンピューターを開発し、当たり前のものとして社会で活用されるようになったからこそ表現することができたものです。
これらの説明も、しばらく経てば取るに足らないものとなってしまいますが、ほんの一時でも皆様の理解の助けとなることができるのであれば、幸いに思います。
このような貴重な機会をいただけたことに、心からの感謝と祈りを持って説明を終えたいと思います。
読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。
この後にヨハネの黙示録を霊界視点で解読させていただきますが、もしよろしければ引き続きお付き合い下さい。

(2016年6月24日)





上記記事で述べている天使と悪魔の概念は、従来のキリスト教会によるスタンダードな天使観・悪魔観とは異なっていますが、とある霊界の住人の方は、黙示録の再解読に先立って説明する必要があると判断したようです。
前回の記事と共に、この記事の内容をきちんと把握しておくことによって、黙示録再解読の理解が捗るとの判断があるようですので、質問がありましたら各記事のコメント欄よりお寄せ下さい。

Silvercord管理人 





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2016年7月8日金曜日

[黙示録再解読]:霊界から見た物質界の役割

黙示録の再解読に先立って、神々や霊界の住人の視点から黙示録を見る際に、重要になる基礎知識について、とある霊界の住人の方のコメントが届いておりますので、ご覧下さい。





■ 霊界の住人のコメント

ヨハネの黙示録について詳しく解説する前に、霊界から見た物質界とはいったいどのような位置づけになるのかを説明する必要があります。
物質界は何のために生み出され、どのような機能を果たしているのかを知ることは、霊界側の視点で語られるヨハネの黙示録の内容を理解する助けとなる事でしょう。
これらの内容に関しては、これまでも何度か軽く触れることはありましたが、明確なかたちでの解説は今回が初めてになります。
これらの説明は予備知識として必要な内容となりますので、もしよろしければお付き合い下さい。

それでは、説明を始めましょう。
皆様がお暮らしの物質界には子供たちに基礎教育を施す制度がありますが、霊界にも同様の制度が存在しております。
生まれて間もない幼い子供霊にとって、周囲に広がる世界はとても広く、未知の事柄であふれているように感じられます。
強い好奇心を持って多くのものに触れ、ものすごい勢いで様々な経験から学びを得ていきます。
周囲の大人たちを模倣し、基礎的な知識を吸収するのです。
それらの過程を滞りなく経験出来るように考えられた教育環境こそが、今皆様がお暮らしの物質界となっております。
物質界は、幼子たちに必要な教育を施すために生み出された、一つのシステムなのです。

霊界がリアルな世界と仮定するならば、限りなくリアルに近い仮想世界が物質界ということになります。
限りなくリアル近いかたちで再現されているとは申しましても、教育上省いても差し支えない部分に関してはかなり簡略化されており、現実社会の中でいきなり実践するよりも子供霊には学びやすい環境となっております。
物質界という仮想世界で様々な境遇を一通り経験することで、霊界の成り立ちや歴史などを理解する事が出来るように様々な工夫が施されており、成長するごとに学ぶ内容がより複雑化し、体験する環境や立場も徐々に移行してゆく事になります。
物質界を取り巻く環境もすべて仮想世界として再現されており、霊界で実践されている事柄もきちんと再現されておりますので、無知な状態でいきなり現実社会で実践しなければならない環境に置かれることがないように、十分な配慮がなされております。
仮想世界での学びが最終段階に達したものから順に基礎教育課程を終了し、卒業することになります。
そして、最終的には霊界での実践教育へと移行してゆくのです。
それらの過程を経て始めて、霊界にて社会の一員として認められるようになるのです。

霊界での基礎教育課程修了の基準は、実社会で生活する上で必要とされる基礎知識が確かに理解されていると判断された者のみとなりますので、学ぶ年数や卒業する年齢は、それぞれの霊によって異なっております。
もし仮にすべての過程を年齢で区切ってしまい、基礎が充分に理解出来ていなくても皆一律に卒業させてしまうと、実社会での混乱を招く原因となってしまいますので、どんなに手間がかかったとしても、卒業しても問題ない基準に達するまできちんと面倒を見ることになっております。
霊にも個性はありますから、どうしても仕方のないことなのです。
一番大切なことは、実社会で安心して暮らして行けるだけの基礎を身につけていることですので、そのことで劣等感を持ったり優越感を持ったりするようなことはありません。
皆で社会を構成し、協力し合うことによって安定した生活が実現出来ることを知っており、どのような立場の者でも、互いの存在意義を充分に理解している証拠でもあるのです。
そして、努力した分だけ必ず成果が現れる事や、時が経つにつれて立場が変化し、成長に応じて担える役割もより重要なものへと移行する事になり、それらの責任を果たせるだけの実力が着実に身につく事実を充分に理解出来ているのです。
自分という存在に確信を持ち、周囲に惑わされずに適切な状況判断ができる状態であるといえるでしょう。
それもこれも、物質界を含めた仮想世界での学びがあってこそ辿り着く認識ですので、今人間の皆様が経験しておられる事柄はとても重要で貴重なものなのです。

(2016年6月8日)





記事で述べておりますが、こちらの内容の関連として、以下の記事が参考になると思いますので、興味のある方は合わせてご覧下さい。

『銀の紐を越えてα』掲載記事:
【霊の学舎としての物質界と因果律の作用(前編)[メッセージ修正版05.1]】
【霊の学舎としての物質界と因果律の作用(後編)[メッセージ修正版05.2]】

Silvercord管理人 





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